株式会社)に、高温の現像液にも耐えられるフィルムを発注。現像から撮影まで1週間を要していた頃から5年とかからずに、現像時間を15分まで縮めることに成功しました」当時の裁決委員からは、「餅屋は餅屋だ。山口シネマさんは映画会社だけあって、さすがだね」と言われたという。山口𠮷久氏や当時の山口シネマの技術者たちの〝より良いものを作りたい〟という執念を感じずにはいられない。このパトロールフィルムは、時代の流れとともに仕様を変えていく。1969年からはビデオパトロール業務が開始。山口シネマでは今もJRA全競馬場で、この業務を請け負っている。捉えるのは難しかった。「当時、アメリカは先進国で、競馬の着順判定を決める技術が進んでいたそうです。そのため父は渡米し、最初に出入りしたのがハリウッドパーク競馬場でした。ここで着順判定の撮影業務を行う会社の社長と出会い、ノウハウを教えてもらったと聞いています」1949年、山口𠮷久氏と当時は数人だった山口シネマの社員が情熱を傾け制作した山口式フォトチャートカメラが完成(写真①)。これは日本初のスリットカメラで、シャッターがない。1枚のフィルムに1着から最下位までを写すことに成功し、精度の高い判定写真を撮影できるようになった(資料①)。このカメラはその後、各地の競馬場でも使われるようになり、決勝写真業務をきっかけに、山口シネマは新たな競馬業務を担うようになっていく。パトロールフィルム誕生秘話戦後復興対策の意味もあって再開された競馬は、娯楽として人気を集めていった。新たなファンが増えれば、より公正な競馬が求められる。「レースの監視は戦前の競馬から行われていました。昔は走路監視委員が双眼鏡でレースの様子を監視。しかし出走頭数が多いレースや、同じ毛色の馬が多いレースなどでは、見落としや誤認も少なくなかったといいます。そこで、より正確な監視方法を探すことになり、この課題も山口𠮷久に持ち込まれました。1950年頃のことです」8 現像する技術がなく、なんと当時は約1週間もかかり、現像時間の短縮が1番の課題だった。中央競馬(当時は国営競馬)にて採用(写真②)。当初は映画撮影用の16ミリカメラでレースを撮影し、現像していた。ネックになっていた現像時間の長さを山口シネマでは様々な技術開発を行い、約15分に短縮することに成功した。現像時間が1時間を切った背景には、もう一つ理由がある。それはフィルムの開発。山口良成社長はこう話す。「映画会社時代から取引のあった富士写真フイルム(現在の富士フイルム当初の技術ではレース映像を迅速に1953年、パトロールフィルムが注目を集めたテレビ放送戦後の混乱が収まり、人々の生活が活気づくにつれて、競馬場も混雑し始めた。ファンの「馬をよりはっきり見たい」という要望に応えるため1962年、中山競馬場と東京競馬場では場内テレビの試験放送がスタート。これを提案したのは、山口シネマだった。「父が提案したところ、日本中央競馬会からまず試験放送をするように言われたそうです。16インチと20インチという競馬場の広さに対しては小さすぎるテレビの前は、いつも街頭テレビを彷彿とさせる人だかり(写真③)。試験放送は大反響を呼びました」当時の写真を見ると、いかにこれが画期的だったのかが伝わってくる。1963年、中山と東京競馬場で山口シネマの場内テレビ業務が正式採用。当初の放送内容はレースとパドック、投票票数表示などだったそうだが、ファンにとっては大きな情報源だっただろう。1973年には東京競馬場の場内テレビがカラー化。以降、各競馬場でカラーの場内テレビが広がっていった。ファロンタイム計測装置やランニングビジョン、オッズプリンターなどを次々に開発レース内容を詳細に把握するために重宝されているファロンタイム。昔の資料を読むと当初、この計測は競馬主催者の職員がストップウォッチを押して、スタートからファロンごとのタイムを計っていたようだ。March 2025 vol.278左_写真①山口式フォトチャートカメラ(ゼンマイ式)/右_資料①当時のパンフレットの一部左_写真②1953年、パトロールフィルムが採用/右_写真④デジタルビュアー競馬や公営競技運営を陰で支える山口シネマ─創立100年を迎える、映像のプロフェッショナル集団─
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