教師や、同じくベースを他国に移すジョッキーが次々と出てくるのは必然で、クリスチャンもその1人。ベースをフランスに移したのだ。現在もフランスを拠点にする彼は言う。「フランスは競馬先進国で、ヨーロッパ諸国の中で賞金が最も高いので、通年で多くの良いジョッキーが集まります。そういう意味で、ここで成功し続けるのは、とてもタフです。でも、それだけ鍛えられるし、ジョッキーとして良い経験をさせてもらっています」G3よりG2、G2よりG1といった具合に、お金のあるところに良い馬が集まるのは道理で、フランスにはヨーロッパ中から良い馬が集まりやすくなる。先述したイタリアにおける近年の傾向とは、真逆にあるわけだ。「はい。競走馬の総体的なアベレージとしては日本が非常に高いけど、フランスのトップクラスの何頭かは、とてもハイレベルです。とくにヨーロッパ内で考えると、フランス馬のレベルは間違いなく高いです。ただ、先ほども言ったように、グッドホースの数は残念ながら少ないため、腕の良いジョッキーたちによる騎乗馬の争奪戦が激化しているという感じです。それだけに尚更、自身のジョッキーとしてのスキルアップを怠るわけにはいきません」さて、活動拠点をフランスに移したクリスチャン・デムーロにとって大きかったのが、ジャン=クロード・ルジェとの出会いだ。元々は南フランスのポーで厩舎を開業していたルジェ調教師は、近9年のうちの5回を含む計6回、ジョッケクルブ賞(G1、フランスダービー)を制した名調教師。アン元気からの助言のおかげで掴めた結果だと言う。「手塚先生から『元気が、直線を向くまでできる限りジッとしていた方が切れるタイプと言っていた』と聞きました。それに忠実に従う感じで追い出しを遅らせたから、差し返す余力が残っていました。アドバイスを聞かずに早めに動いていたら、負けていたと思います」のイタリアで騎手デビューを果たした。初騎乗日の翌日には、早くも初勝利をマークした。2年目となった10年には153回も先頭でゴールを駆け抜け、イタリアリーディングの2位に躍進。11年に222勝を挙げ、初めてリーディングジョッキーの座を射止めると、翌12年にはそれを上回る264勝。2年連続でリーディングジョッキーに輝き、イタリアではなくてはならない存在のジョッキーとなった。の頃からイタリア競馬が事実上、破綻状態に陥った。年を追うごとに賞金は減額され、その少なくなった賞金でさえ、振り込みが先送りされるようになった。その影響で当然、他の国からイタリアへ遠征しに来る馬は減り、逆にイタリアの馬が他のヨーロッパ諸国のレースに遠征するケースが増えた。国内のレースの出走馬のレベルは低下。グループレースを維持するためのレーティングに達した馬を揃えられないのも当たり前となり、格付け委員会によるレースの格下げが相次いだ。波及した。他国へ移籍して開業する調2009年、16歳の時に生まれ故郷しかし、皆さんご存じのように、こその影響は、ホースマンにも大きくドレ・ファーブルと両巨頭と言って良い、かの国の伯楽だ。「ルジェとは2016年から、優先騎乗契約を結びました。現在はドーヴィル競馬場内にも厩舎を置く彼の下で、朝の調教と競馬に乗っています。厩舎のスタッフとの意思疎通もしっかりと取れて、僕達はベリーグッドチームだと言えます。そんな中でジョッケクルブ賞を3回、ギニー(桜花賞と皐月賞に該当)を計4回、凱旋門賞を2回など、多くの好成績を残すことができました。彼は常に僕の意見を聞いてくれるので、良いコミュニケーションの取れたストロングチームを結成することができています」そんな中から、凱旋門賞(G1)に関して詳しく話を伺った。まずは20年に勝利した、ソットサス。クリスチャンにとっても初の同レース優勝だった。「ソットサスは、2歳の時から能力が高いところを見せていました。3歳になり、ジョッケクルブ賞やその前哨戦であるシュレンヌ賞を勝ち、頭角を現しました。秋には凱旋門賞の前哨戦であるニエル賞を勝ったけど、本番はヴァルトガイストの3着でした。でも、2着のエネイブルとそう差はなかったし、何よりハイレベルのレースで好勝負ができたことで、古馬になった翌年も活躍できました。春にはG1のガネー賞を勝ち、秋には凱旋門賞を勝てました。頭が良くて無駄なことをしない馬なので、調教ではそれほど動かないのですが、競馬へ行くと楽に力を発揮してくれる。素晴らしい馬でした」ただ、凱旋門賞を勝った時、唯一心残りだったことがあったと続ける。「新型コロナウイルス騒動の真っ最13ワールズエンド 11/17(日)京都 壬生特別 1着クリスチャン・デムーロ Cristian Demuro 1992年7月8日生まれの32歳。イタリア出身。父は元騎手、姉は調教師免許を取得。兄はJRA所属のミルコ・デムーロ騎手。 2009年16歳の時にイタリアで騎手デビューし45勝を挙げると、2年目には153勝、3年目で200勝を突破し、同国リーディングを初獲得。翌年も連続でトップに立った。13年にはビズサナースでミラノ大賞典(当時G1)を制し、その後フランスへベースを移すと、16年にはラクレソニエールでプールデッセプーリッシュ(G1、日本の桜花賞に該当)とディアヌ賞(G1、同オークスに該当)、17年にはプラムトでプールデッセプーラン(G1、同皐月賞に該当)とジョッケクルブ賞(G1、同ダービーに該当)を優勝。19年ジョッケクルブ賞を優勝のソットサスとのコンビでは、20年に凱旋門賞(G1)も優勝。また、23年にはエースインパクトとのタッグで、ジョッケクルブ賞と凱旋門賞を制覇。 短期免許を取得して、日本へ度々来日。11年の初来日はNARで取得も、翌12年からはJRAでも取得、ドナウブルーで京都牝馬S(G3)を勝ちJRA重賞初制覇を飾ると、13年にはアユサンで桜花賞(G1)優勝と、日本G1初勝利を成し遂げた。その後も阪神JF(G1)、ホープフルS(G1)等を優勝し、エリザベス女王杯(G1)は24年のスタニングローズで2度目の戴冠だった。
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