接していく中で、佐藤選手のメダル獲得へのただならぬ熱意を感じ取るようになっていた。 「帰国後に話していた『死ぬ気で取り組んだ』との言葉は、嘘ではないと思いました。そのうちに、彼ならば馬術で満点を残せると、自分も信じられるようになっていきました」(楠木主任)代五種チームの成田勝俊コーチが撮影を行う形で、日々の練習や大会での騎乗している動画を楠木主任へと送ってきた。 「その動画に対して、ここを注意したらまだ良くなるよ、などの感想を送りました。送られてくる動画を見る度に変化が感じられたように、佐藤選手は自分のアドバイスを反映させていただけでなく、馬を信頼して騎乗するようになっていました」(楠木主任)ンピック。日本時間では8月8日の男子フェンシングから、ランキングラウンド(フェンシングボーナスラウンドにおける、選手のスタート順を決める)から競技が始まったが、近代五種チームがパリへと出発する2日前に、佐藤選手はノーザンファームで最後の調整を行っていた。 「その時も騎乗練習を行ったのですが、ちょっとだけ修正は行ったものの、これまで自分が伝えてきたアドバイスがそのままの形になっていました。その時には教えている自分でさえ、満点を取れるはずと思っていたほどです」(楠木主任)介副代表の元にも訪れ、2人の前でもメダル奪取を約束した。そして、楠木主任に対佐藤選手は牧場を離れてからも、近 7月26日に開会式を迎えたパリオリその際、佐藤選手は吉田代表と、吉田俊してはあるお願いをしていた。 「佐藤選手は『本番は日本時間の夜中になりますが、直接アドバイスをもらえますか?』と言ってきました。彼の情熱を感じ取っていましたし、上達していくスピードを見てきただけに、いつでも連絡をしてきていいよ、と伝えました」(楠木主任)ル8ープ月9Bの日首に位行とわなれったた準佐決藤勝選で手ははグ、る。その決勝における最初の競技が、馬術であった。このパリオリンピックでは、総合馬術団体で日本代表チームが銅メダルを獲得。1932年のロサンゼルスオリンピックの馬術障害飛越競技で、金メダルを獲得した西竹一選手以来、実にトナーである特定の愛馬と共に、常日頃から競技へと臨む馬術競技とは違って、近代五種の馬術競技は、提示されたリストの中から抽選で騎乗馬が決められる。選手には事前に使用馬リストが渡され、競技前日に使用馬全頭が試走する。津山コーチが全頭の試走動画を撮影し、約50頭の動画を楠木主任は全てチェックしていった。 「馬によってスピードの乗せ方だけでなく、コースのライン取りも違ってきます。競技開始の90分前に騎乗馬が決まったのですが、事前にチェックしてあったその馬の印象を、佐藤選手と津山コーチへ伝えました」(楠木主任)しかも、楠木主任は事前に送られてきたコース図を、スマホで指でなぞって経路図を作り、その画像も送っていた。そしてもう一つ、楠木主任はパリへ旅立つ前に、あるアドバイスを送っていた。それは、〝出場前の飛越回数を減らす〟という、大胆な作戦だった。 「中国で行われていた大会の動画を見た時に、障害を落としていた理由として、馬が疲れているようにも見えました。話を聞くと、同日の女子の馬術競技でも、騎乗が行われていた馬でした」(楠木主任)楠木主任は騎乗馬の名前を見て、今回も同日先に行われている女子の競技でも使われていた馬であることを確認する。それを佐藤選手と津山コーチに伝えると、飛越回数を減らすだけでな時差もある北海道からパリに向けて様々なアドバイスを送っていった 7ノーザンファームでの馬術研修中の佐藤選手と内田選手92年ぶりの快挙となった。ただ、パーオリンピック本番を見据えてセルフランセ種の馬と障害飛越の練習に励む佐藤選手18人で行われる10日の決勝へと進出す
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