Ceasario_ECLIPSE_202405
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シーザリオのVはならなかった。 「焦っていましたね。今、VTRを見てもフォームはバラバラ。全てにおいて冷静さを欠いていました。不細工なレースをしてしまったと反省しています」勝負ごとに〝たられば〟は禁句かもしれない。だが、一度でもシーザリオにまたがっていたらどうだったか。 「桜花賞までに騎乗していれば、心構えそのものが違ったでしょうね。これぐらいの脚は使えるというのも、分かったでしょうから。でも、それは言い訳だと思うんです。あの時は、その状況でも仕事をしなければいけなかった。そして、結果を残さなければならなかった」悪夢のようなレースを終えた吉田にとって、ひとつの救いは「角居先生は少しも嫌な顔はされなかったんです。普通なら、怒られてもおかしくない騎乗です。でも、先生は顔色ひとつ変えていなかった、器の大きい方でした。 だからこそ、悔やんでも悔やみきれないレースになってしまった」あれから約20年がたった。「馬券を購入していただいたファンの方もそうですが、シーザリオの関係者すべての方に、申し訳なかったという気持ちしかないですね。繁殖入りしてからもシーザリオはエピファネイア、リオンディーズ、サートゥルナーリアと次々と名馬を輩出しました。また、エピファネイアの産駒の中からもエフフォーリア、デアリングタクトと、名馬が生み出されています。それを思うとシーザリオの偉大さを感じますし、同時に僕の未熟さを痛感しています」吉田は2012年にジョッキーを引退、北海道と三重県名張で育成牧場を経営後、一度は一般職に転じたがホースマンとしての思いは捨てきれず、また新たに別の地での育成牧場開設を考えているという。 「あの桜花賞を勝っていたら?僕の人生は変わったでしょうね」歴史は変わらないし、時計の針は巻き戻せない。だか、スタート後に大きな不利を受けたシーザリオに対して、テン乗りの吉田ができた最大限の騎乗。それが2005年の桜花賞だった。(中日スポーツ 大野英樹)33吉田稔(よしだ・みのる)、1969年2月12日、佐賀県出身の55歳。元地方競馬騎手。父は佐賀競馬所属の元調教師、吉田昭。栗東・矢作芳人厩舎の吉田一成調教助手は弟。名古屋競馬で1994〜2003年まで10年連続リーディングジョッキーの座を獲得。2006年に通算2000勝を達成した。JRAでも愛知杯、阪急杯、関屋記念、シリウスSなど重賞レースで5勝を挙げ、2012年9月に現役を引退。地方競馬通算2524勝、JRA通算160勝。引退後は、北海道と三重県で競走馬の育成牧場を開設していた。    

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