「桜花賞」というレース名を聞くたびに、悪夢がよみがえってくる。今年の桜花賞デーも吉田稔にとって忘れられない、消せるものなら消したい一戦を思い出させる一日になった。吉田稔。地方競馬の元ジョッキー。名古屋競馬において、1994年〜2003年まで10年連続リーディングジョッキーの座を獲得。2006年には通算2000勝を達成、JRAでも愛知杯、阪急杯、関屋記念、シリウスSなど重賞5勝を挙げて一時代を築いた名手だ。そんな吉田稔が「悔やんでも悔やみきれない」と今でも嘆くのが、2005年の桜花賞。それまで新馬戦からフラワーCまで、無傷の3連勝を飾っていた桜花賞の最有力馬シーザリオにある日突然、騎乗を託されたのだ。 「当時のエージェントからメールで人気になりますよ』とのことでしたが、JRAの知識は豊富ではなかったんです。だから1番人気に支持されるとはを振り返る。することも許されていなかった。 「追い切りにもまたがっていない、よ。今でもそうだと思いますが、地方 どがそうでしたから」うJRAのクラシックだ。普段は自然くなった。 「周囲が騒ぎ出したんですよ。それじでした」連絡がありました。(デビューから無傷の3連勝でフラワーCを勝った)シーザリオへの騎乗依頼でした。それまでコンビを組んでいた福永(祐一)君がラインクラフトに騎乗するので、手綱を取ってほしいと。『桜花賞でも思ってもいなかった」と、吉田は当時約20年前だ。今とは違って、動画でレースを確認することもままならない時代。しかも地方騎手は、JRAのトレーニングセンターで追い切りに騎乗全くの初騎乗。でも、依頼を受けた段階からあれこれとは考えなかったですの騎手がJRAで乗る場合は、ほとんそれでも、地方競馬とは注目度が違体の吉田でも、日に日に桜花賞への世間の関心の高さを感じ取らざるを得なこそマスコミの方からも『すごい馬ですから』と伝えられたりしました。そのあたりから、嫌でも意識し始めた感冷静さを保とうとする自分はいた。そんな吉田をよそに、周囲は盛り上がっていく。これまでにない不思議な感覚を、当時36歳とジョッキーとして脂が乗っていた名手も感じずにはいられなかった。レース当日。ファンは福永が選んだラインクラフトではなく、吉田がテン乗りとなるシーザリオを1番人気に支持した。吉田は仁川で、異様なまでの盛り上がりを感じたという。 「1番人気を見た瞬間に、プレッシャーを感じました。緊張もMAXになったのを今でも覚えています。戦前の雰囲気も、今までの経験していたものとは全く違いました。桜花賞というレースの重みを、その時に感じたんです」シーザリオの角居勝彦(元)調教師からの指示は、単純だった。 「レース前に角居先生からは『前に行ってほしい』と言われました。その通りに騎乗すれば正解が見えてくるのかな、と。だから、先行策を考えていたんです」吉田は指示を守ろうと、スタート後にシーザリオを前へ出して行った。 「発馬して位置を取りに行きました。すると、テイエムチュラサンが切れ込むように内へ入ってきたんです。それにつられてデアリングハートが前に入ってきた。デアリングに乗っていたミルコ(デムーロ騎手)も無理に入ったのが分かったのか、こっちを見てきましたから。そこで進路はなくなって、下げざるを得なかったんです。それでも出しに行っているから、掛かってしまった」ポジションを取ろうとしていた瞬間の不利。誤算だった。位置取りを悪くしたシーザリオは11番手に。それも身動きが取れないポケットへと、はまり込んでしまった。 「やっぱりクラシックですからね。地方のジョッキーに勝たせるかという意識もあったと思いますよ。人気にもなっていたから、それは仕方のないことです。そこから馬群に囲まれてしまって、僕も冷静ではいられなかった。不運でした…」直線では先に抜け出すラインクラフトに対して、何とか馬群を割って迫った。残り1ハロンの地点からグイグイと末脚を伸ばした。だが、頭差の2着。May 2024 vol.26832〜Forever CESARIO〜vol.82005年の桜花賞
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