の孫にあたる血統だ。さらに遡れば、エステイツの8代母サンフラワー(1847年生、父ベイミドルトン)は、ステーツマンの6代母。薄いながらも、牝系クロスが生じているのも興味深い。さて、ナイノッテの父チクルは現役 9時代にシャンパンSなどに勝ち、のちに米国チャンピオンサイアーとなる名馬で、さかのぼれば65・8㌔というハンデを背負ってメルボルンカップをレコード勝ちし、種牡馬としても大成功するカーバインにたどり着く。本邦輸入種牡馬シャイニングスピヤー(昭和2年輸入)やミンドアー(昭和4年輸入)と同じスペアミント(英ダービー、パリ大賞)の直仔で、流行の血統をいち早く繁殖牝馬を通して導入し、所有する種牡馬を成功に導いている。このあたりの手腕は見事だ。クステーツ(繁殖名ロックフェル)もまた、第二次大戦後の1953年には、カンセイ(繁殖名ジプシーネラ)が桜花賞を5馬身差で勝ち、また社台牧場生産レダが牝馬ながらに天皇賞・春に勝利するなど戦前戦後を通して活躍した。また、産駒のイブキヤマ(競走名:ステーツイブキ、目黒記念)ハルステーツが種牡馬として成功しているほか、ブルードメアサイアーとしてラプソデー(菊花賞、安田記念)、ミハルカス(ダイヤモンドS、オールカマー)、フラミンゴ(桜花賞2着)、チドリ(桜花など、1956年に26歳で死亡するまで多くの活躍馬を送り出している。井農場生産ハクリュウ(28年生、父ラシデヤー)を内国産種牡馬として迎え入れている。小岩井の2歳セリ(現在れたというこの馬は、時代を代表する1頭だった。この当時、現在で言うところの2歳競馬はまだ行われておらず、初出走は3歳5月。デビュー5戦目に2頭立てのレースに勝利して初勝利を記録すると、キャリアを積みながら徐々に頭角を現し、同年秋に本格化。また、ステーツマンの3年目産駒ロッ賞2着)、ブルレット(オークス3着)そして、この時代に社台牧場は小岩の1歳市場)において8千円で取引さ逃げ、先行力を武器に1931年の帝室御賞典(東京)、優勝内国産連合競走、目黒記念・春など31戦13勝(2着10回、3着4回)。うち4度がレコードタイムで、4歳春の開催では72㌔を背負ってレコードタイムを更新している。父ラシデヤー(1918年生、父ラシカッター)も帝室御賞典優勝馬で、その父ラシカッターはセントサイモン直仔で、ダービーやセントレジャーなどに勝利したパーシモン産駒。イボアと同じ明治43年(1910年)に奥羽種馬牧場によって輸入され、本馬ほか本馬の全姉ウキフネ(優勝内国産馬連合競走)などを送り出している成功種牡馬。一方、母も小岩井農場が誇るフロリースカップの孫となるフロリスト。自身も1924年の帝室御賞典(東京)優勝馬という活躍牝馬だが、繁殖牝馬として歴史的な大成功をおさめ、ハクリュウと、その半弟ハクセツ(29年生、父シアンモア)、半妹スターカップ(30年生、父シアンモア)、半弟アカイシダケ(32年生、父シアンモア)と、4頭の帝室御賞典優勝馬を送り出してる。また、20歳の時に産んだ馬ミナミホマレ(39年生、父プリメロ)は日本ダービーに優勝し、種牡馬としてもゴールデンウエーブ。ダイゴホマレと2頭のダービー馬を送り出している。昭和8年(1933年)から社台牧場で種牡馬となったハクリュウは、マルタケ(京都農林省賞典四歳呼馬=菊花賞、帝室御賞典・春)によって社台牧場にクラシックタイトルをもたらしたほか、エスパリオン(目黒記念・春など)、ダイサンホウシュウ(京都盃、ダービー2着、菊花賞3着)、ゼンサ(目黒記念・秋)、ドトウ(京都記念・秋)などを輩出。また、母の父としてステーツマンとの間に天皇賞・春優勝レダを送り、マルタケは種牡馬としてもミネハル(阪神3歳S)、ナンバイチバン(日本経済新春杯、スワンSなど)、ナスノタケ(天皇賞・春2着)などの父としても血をつないでいく。次回からはそんな社台牧場、社台スタリオンステーション繋養種牡馬を時代背景とともに紹介していきたい。(第1回・了)フロリスト(競走馬名:フロラーカップ)牝|1919年 小岩井農牧株式会社 編『[小岩井農場]五拾周年記念』スターカップ(父:シアンモア 母:フロリスト)牝|1930年 小岩井農牧株式会社 編『[小岩井農場]五拾周年記念』42年の阪神優駿牝馬(オークス)に優勝。
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