グリーン(21年生、父グリーンバック)、クイッケロ(24年生、父ハリーオン)が昭和3年に、ミンドアー(22年生、父スピヤーミント)、タラップ(23年生、父ゲインズボロー)が昭和4年に日本到着。産駒がデビューするや、明治、大正時代に輸入された馬たちをランキングから一掃する。これらは昭和10年(1935年)に輸入されたダイオライト(27年生、父ダイオフォン)や、その2年後に導入されたセフト(32年生、父テトラテーマ)、あるいは持ち込み馬として日本で産声を上げた月友(32年生、マンノウォー)といった馬たちとともに、日本産馬のレベル向上に力を貸していった。そのあたりの遍歴は後掲の表にまとめたので、ご覧いただきたい。やや政治的な話となってしまうのは申し訳ないが、当時は輸入品目に対しての外貨は割り当て制。民間が自由に海外から馬を輸入できない時代という背景もあって個体も少なく、ランキングを構成する馬には大きな変化はない。また、戦後は下総御料牧場生産で6年連続チャンピオンサイアーとなったクモハタ(36年生、父トウルヌソル)に代表されるようにランキング内に内国産馬が急激に増えているが、アメリカや中国などを相手にしていた戦時中は馬を輸入する余裕などなく、日米講和条約が発効し、独立を回復する昭和27年(1952年)までは馬を輸入できなかったことに起因する。ある意味でいえば、内国産種牡馬が謳歌していた時代でもある。その後は、割り当て下にありながらも、次々と日本の地を踏む外国産種牡馬によって内国産種牡馬は居場所を失っていくのだが、そのあたりは次回以降に書き記していきたい。 8台牧場によって輸入されたポリグノータスは、1916年生まれの英国産馬。父はファラリスを通して、その血を世界中へと広め、また英国でチャンピオンサイアー5回という名馬ポリメラスで、母はベンドアー系オルム産駒のオルナメンタル。ポリメラスがベンド一方、昭和4年(1929年)、社©蓑虫屋ポリグノータス号(Polygnotus)1916年生 帝国競馬協会 編『馬匹血統登録書』第9巻アーの直系ひ孫でもあることから、この馬にはベンドアー4×4のクロスが生じている。ポリグノータスは、そうした牧場の期待に応えるように第4回日本ダービーに社台牧場生産ナニワゼンショウを、そして第5回ダービー、第7回ダービーにもオーナーブリーディングホースで全姉妹シャダイザクラ、ジョージポリを送り出している。ちなみに、この2頭の母はデヴォーニア。モーリスの8代母として、今もその血を伝えている。そして、ポリグノータスの導入から7年後となる1936年(昭和11年)に、ブランドフォード直仔ステーツマンを米国から輸入している。この馬は1930年(昭和5年)生まれの英国産馬で、英国で23戦6勝2着1回3着2回。ハイペリオンが楽勝した英国ダービーでは、2着キングサーモンとは差のない3着に健闘したほか3、4歳時には10ハロンのネヴィルプレートを連覇。14ハロンのハイペリオンステークス、12ハロンのグラミスHなどにも優勝し、当時の最高価格となるいる。余談めくが、昭和3年に輸入された英国ダービー3着馬シアンモアがロが6万円というから、いかに高い評価を得ていたかが、ご理解いただけるだろうか。日本導入後、初年度の血統登録数は日本到着が1月だったこともあって種付け頭数13頭、出生頭数9頭にとどまっているが、その中から1940年の阪神優駿牝馬(オークス)優勝馬ルーネラや、馬を好まれたという賀陽宮邦寿王殿下がご来場されたという1941年の帝室御賞典・秋をレコード勝ちしたエステイツを送り、社台牧場に初のビッグタイトルをもたらしている。エステイツは昭和10年(1935年)に米国から輸入された繁殖牝馬ナイノッテ(その父チクル)の産駒。ナイノッテは、1907年に小岩井農場が基礎牝馬として輸入した20頭のうち、グードフェース(02年生、父トレントン)◎健闘を続けた社台牧場繋養種牡馬July 2024 vol.270モーリスの8代母 デヴオーニア(1939生) 日本競馬会 編 『サラブレッド血統書』第1巻(1941年出版)12万円、昭和11年に輸入されたプリメ50万円で購入されたと、新聞が伝えてHistory of great stallions 偉大な種牡馬の歴史─第1回 戦前〜戦後までの変遷と社台牧場の台頭─
元のページ ../index.html#3