ECLIPSE_202407_6-11
2/6

馬券の発売が禁止されてしまったこと。そのため全国に15カ所あった競馬倶楽部は11カ所に統合され、大正12年(1923年)4月に単勝馬券の発売を許可する競馬法が公布されるまでの間は、政府から支給される補助金によって細々と競馬を開催せざるを得なくなり、先が見えない暗黒の時代が続く。当時のホースマンたちの心境は、察して余りある。それでも先人たちの粘り強い懸命な努力により、大正12年(1923年)に競馬法が制定され、馬券発売を伴う競馬が復活すると、翌年には元馬政官陸軍少将である石橋正人が「馬の世界」という雑誌に「(前略)優勝と名誉とをもって馬産家の奮励を喚起し、ややもすれば萎靡沈滞せんとする馬産に刺激を与うることの必要上から、日本ダービーの創立は実に喫緊のことであらねばならぬ。(後略)」という意見を盛り込んだ、「日本ダービーを創設せよ」という一文を掲載するなど、競馬、そして日本ダービーに対する機運が高まっていった。日本ダービーこと「東京優駿大競走」創設が正式発表は昭和5年(1930年)4月だったが、こうした動きにいち早く動いたのは、社台ファームの創設者である吉田善哉氏の父で、当時、札幌で乳牛の牧場を営んでいた吉田善助氏だった。ホルスタイン輸入の第一人者でもあった善助氏は、そうした噂を耳にするや、昭和3年(1928年)、(1929年)には米国から種牡馬ポリグノータス(1916年生、父ポリメラス)と、繁殖牝馬16頭を輸入し、競走馬生産事業をスタートさせる。あったこの時代、少しずつではあるが競馬が競馬として認められるようになり、サイアーランキングの集計も始まった。その初代王者となったのが、のちに6度もチャンピオンサイアーとなるイボア(競走名:レイトオイシン。1905年生、父ハックラー)だった。馬券禁止時代の1910年(明治43年)に国有種牡馬として輸入され、十勝種馬牧場に繋養された馬で、祖父ペトラークは英国2000ギニー、セントレジャーに勝った名馬。当時の十勝地方は日本を代表する馬産地ではあったが、時代は速く走る馬を求めておらず、軍用馬や未開拓の山林原野における開墾作業用馬の生産を目的としたものがほとんどだった。そのため血統や競走成績よりおそらくは馬格に恵まれた馬を導入していったと考えられる。それでも5歳で輸入され、サイアーランキングが集計された1924年(大正13年)時にはすでに19歳となっていたイボアは、1928年(昭和3年)に23第1回ダービー制覇を目指し、白老町に移り社台牧場を創設。翌4年時代が大正から昭和へと移りつつ歳で死亡したあとも29年までチャンピオンサイアーの座に居続けた。そのイボアに代わり、昭和5年(1930年)にチャンピオンサイアーの座についたのが、大正8年(1919年)に宮内庁下総御料牧場によって輸入されたチヤペルブラムプトン(1912年生、父ベッポ)だった。父のベッポはハードウィックS優勝馬で、その父マルコの孫には6戦不敗の名馬で種牡馬としても成功し、世界中にその血を広げたハリーオンがいる。そしてもう1頭、この時代を代表するのは大正10年(1921年)に輸入され、昭和6、7年に本邦第3代チャンピオンサイアーとなったペリオン(1916年生、父アマディス)。だ。この馬もまた、馬券禁止時代に輸入された馬だが、祖母に1903年の英国1000ギニー優勝馬クインテッセンスがいて、おじに1916年英国2000ギニー優勝馬クラリシムスがいる良血馬。日本でも産駒がデビューするや、イエミチ、コウラルパール、オーミヤチダケ、ホンケン、ペントニオ、ロンプ、テンショウドー(いずれも帝室御賞典)などを残している。やがて、時代が大正から昭和に移ると、まるで東京優駿大競走の誕生を予見するかのように名馬が続々と日本の地を踏んだ。まず、昭和2年(1927年)には宮内庁によって輸入されたトウルヌソル(22年生、父ゲインズボロー)。本馬は、のちに5度もリーディングサイアーとなる名種牡馬であるのだが、この馬のほかにも翌3年には英国ダービー3着という実績を持つシアンモア(24年生、父バッカン)が小岩井農場によって輸入され、さらに昭和4年には、英国の2歳重賞モールコームSやリンカシャーHなど5勝を挙げたプライオリーパーク(22年生、父ロックサヴェイジ)が、帝国競馬協会によって日本の地を踏んでいる。ほか、ロングリートステークスなど2勝で、のちに多くの活躍馬を残すシャイニングスピヤー(21年生、父スピヤーミント)が昭和2年に、英国10勝馬オール◎日本ダービーの創設◎黎明期を支えた種牡馬たち◎戦中、戦後の名種牡馬たち      7競走後のエステイツ号と尾形藤吉師と曳綱を持つ川内安忠氏『エステイツ号 御賞典拝受紀念寫真帳』

元のページ  ../index.html#2

このブックを見る