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 「サイアーランキングを見ればその国の競馬が分かる」「種牡馬を制する者は業界を制す」などと言われるほどまでに、競馬業界において種牡馬の果たす役割は大きい。例えばネアルコやハイペリオン、ノーザンダンサーやミスタープロスペクター、サンデーサイレンスといった種牡馬たちには世界の流れを変える力があった。だから、いつの時代もホースマンたちは優秀な種牡馬探しに血まなこになる。今回から数回に分けて、戦前、戦後にかけての日本の種牡馬・馬産事情を紹介しつつ、日本の生産シーンを引っ張り続ける社台スタリオンステーションの歴史をご紹介したいと思う。いまや、毎年のチャンピオンサイアーと送り出すだけではなく、サイアーランキングのトップ10をほぼ独占し、また2008年にはその繋養種牡馬産駒が全ての平地G1レースを制する偉業を成し遂げたこともある同スタリオンステーションだが、そこに至るまでには先人たちの弛まぬ努力があった。それぞれの時代を検証しつつ、その足跡を記しておきたい。社台スタリオンステーションは昭和会社社台コーポレーションの組織下にあるので、その創業は同年とされており、実際にオフィシャルのスタッフジャンパーにはそのように記されている。しかし、それ以前から種牡馬事業は行っており、今回は記録に残っている限りの情報を紹介していきたい。一般に、日本最初の洋式競馬は文久元年(1861年)に、現在の神奈川県横浜市相生町近辺で横浜居留外国人によって行われてスタートしたと言われているが、それとは別に日本の競馬は朝廷の儀式として、また神社祭礼の行事として、それ以前から全国各地で行われていた。それらが、いつ、どこで、どのような形で始まったかをしっかりと検証することが難しいように、日本にいつ、最初のサラブレッドが輸入されてきたのかを特定するのは困難だ。それでも、大きなきっかけのひとつとなったのが明治40年(1907年)、岩手の小岩井農場が20頭の繁殖牝馬と1頭の種牡馬インタグリオー(父チャイルドウィック)を輸入したことであることは間違いない。この時代に輸入された20頭のうちビューチフルドリーマー(03年生、父エンスージアスト)はカブトヤマやシンザン、タケホープの祖となり、フロリースカップ(04年生、父フロリゼル)はミナミホマレやカツラノハイセイコ、ウオッカを送り出したほかレイパパレの10代母となり、また本誌3月号でも触れたようにアストニシメント(02年生、父クイックリーワイズ)のチェム)はナミュールの22代母として、その名を残している。しかし、小岩井農場にとって不運だったのは翌41年(1908年)10月、◎ニッポン競馬の胎動     6July 2024 vol.27011代母ピュラ(1771年生、父マッ40年(1965年)に創業された有限社台グループ所蔵『エステイツ号 御賞典拝受紀念寫真帳』History of great stallions 偉大な種牡馬の歴史─第1回 戦前〜戦後までの変遷と社台牧場の台頭─Text: 山田 康文

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