ECLIPSE_202309_7-11
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晩成型で、旧6歳時の65年にダイヤモンドSとオールカマーを優勝。同年の天皇賞・秋では大逃げを打ち、シンザンの3着となった。〈「英雄のいない時代よりも、英雄を必要とする時代のほうがもっと不幸な時代」なのだ。私はシンザン、大鵬、ジャイアンツ……といった安定株に身をまかせた小市民ムードというやつには、どうしても共鳴できがたい〉(「シンザンを必要とする時代」)そういうスタンスだった寺山は、その天皇賞・秋で、シンザンを外し、ミハルカスを絡めた枠連を買って、苦い目に遭ったという。は次のように描写している。〈ミハルカスの加賀が四コーナーでは直進ぎみに大きくふくれるという奇襲戦法に出た。当然、ぴったり並んできたシンザンは、その外に持ち出された。(略)この思いがけないアクシデントに、スタンドは騒然となった。四コーナーからコースをはずれて、まっすぐスタンドに走ってくる二頭は、三階席からは見えなくなった。(略)シンザンは、鮮やかに抜け出して五冠馬となった。そして、それについていったミハルカスは有馬記念二着馬となったミハルカスの次走は有馬記念。寺山のである。こうしてミハルカスは、シンザンへの奇襲によって、競馬史上に残る一頭となった〉(「旅路の果て/ミハルカス」)シンザンが「消えた」有馬記念として知られる一戦である。ミハルカスはシンザンを「消した」馬だったのだ。寺山はミハルカスの引退後について              8走馬総合研究所の研究馬になったといも記している。それによると、ミハルカスは種牡馬となったが種付けに興味を示さなかったため、宇都宮育成牧場で乗馬となった。そこでエジソンフジという牝馬と交配し、唯一の産駒であるミハルクインが誕生した。同馬は競う。〈これはたぶん、馬にしては珍しい一夫一妻の幸福な老後ということになるかも知れない〉(同前)JBISサーチでミハルカスの種牡馬情報を見ると、70年度の種付で1頭だけ産駒が誕生していることがわかる。それがミハルクインか。持ち込み馬で、函館3歳S、札幌3歳S勝ちを含め、11戦6勝という成績をおさめた強い馬だった。引退後はナイトアンドデイという繁殖名で牝系をひろげた。その8歳下にも、同じ「フジマサ」という名の牝馬(父グレイモナーク)がいた。こちらも社台ファームの生産馬だった(白老産)が、戦績は14戦1勝。当時の200万下で終わった。寺山は、とっくに引退したはずのフジマサの名を、下級条件のレースの出馬表に見つけて驚き、こう書いた。〈十一歳でのカムバックなんて、中央ではとてもムリな話なのだ、と私は思った。出馬表では四歳と記されてあったが、それはおそらくホステスが本当の歳をかくして店に出る、というのと同じくらいにしか考えていなかったのだ〉(「あの名馬はいずこに/フジマサ」)当然、馬齢をごまかすことなどできるはずはなく、これは別のフジマサだった。寺山が〈私たちがファンだったフジマサ〉〈強いフジマサ〉と記したナイトアンドデイの牝系は、今もつながれている。86年の皐月賞馬ダイナコスモス、88年の3歳牝馬Sなどを勝ったカッティングエッジ、その半弟で、トルコやフランスで種牡馬となったディヴァインライト、2007年のシンガポール航空国際Cを制したシャドウゲイトなどもその血を引いている。残念ながら、〈もう一頭のフジマサ〉は、繁殖牝馬としても成功しなかった。寺山は、2頭のフジマサについて記した掌編の最後に句を添えている。〈二つ咲き一つは散りぬ月見草〉スピードシンボリ、ニホンピローエースなどと同世代。皐月賞は出走取■ ミハルカス(牡、1960年生、父ヒンドスタン、母第弐ハレルヤ、千葉社台牧場生産)■ フジマサ(牝、1962年生、父ラティフィケイション、母ナイトライト、社台ファーム千葉生産)■ ヤマニリュウ(牡、1963年生、父フェリオール、母アラバスターゼセカンド、社台ファーム生産)September 2023 vol.260白馬に乗る寺山寺山修司と社台グループ─奇才は社台グループの馬たちをどう描いたのか─

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