ECLIPSE_202303_9-16
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な」 それ以降、善哉は黙った。しかし眠った様子はなかったので、山田はパジャマの上から善哉の腹を撫でつづけていた。山田がそうしていた間に、午前四時を過ぎた。山田の熱意が伝わってくる。 「トイレに行きたい」と善哉が言う。山田は敢えて、トイレまで立たせる手伝いはしなかった。そのうちに善哉が静かになった。山田は眠ったのかと思った。だが眠ってはいない。 「苦しいのですが、社長」山田は驚き、二階にいる和子の部屋を叩き、和子とともに善哉を介助しようとした。 (様子がおかしい)二人が同じことを感じた。ロッジから三〇〇メートル離れた先に、勝已と和美の家があった。和子の同意を得て、山田が電話をかけた。勝已は車ですぐ飛んで来た。灯りの点っているロッジで、善哉の様子を見た勝已の口から、声が漏れた。 「あ、親父、死んでいるよ」勝已は左手にある腕時計を見た。午前四時五十五分だった。死因は、善哉が運びこまれた千歳第一病院の医師によって、心不全と診断された。平成五年八月十三日金曜日。吉田善哉の七十二年三カ月余りの生涯は閉じられた。善哉の遺体は、社台ファームと彼を支えて来た人たちの手で、普通より大きな棺の中に横たえられた。善哉がよく愛用していたボルサリーノの紺色の帽子が入れられた。天国で馬を引いて歩くときに引き手がなければ困るというので、シャンクも納められた。ほかに生前の善哉が愛用したものが何点か入れられたが、完成予定通りの十三日に届いたばかりの入れ歯もその中に収められた。 「ノーザンテーストのたてがみを入れなくては」と言い出した人がいたが、吉田和美が反対した。「それ入れちゃダメよ、お父さんがテースト連れて行っちゃうから。お父さんがいちばん愛していたのはシャダイソフィアだったわよ。大事にたてがみとってあるわ」京都競馬場から北海道に帰って来ていた遺髪のたてがみが、かつてシャダイソフィアに頬ずりをした善哉の、顔のすぐそばに置かれた。女たちのすすり泣く声があがった。七十二年と三カ月余りの生涯が閉じられ、社台ファームに吉田善哉の不在が明らかになった日から二日目の八月十五日に、教会式の通夜にあたる故吉田善哉兄前夜祭が行なわれた。善哉が病いと闘っていた間、自身の喉頭部の異常に苦しみ、食事をできずにいた“東の番頭”山本寿夫は、ついに病院に癌患者として入院する身となり、北海道にまで足を運ぶことはできなかった。一四〇〇人におよぶ人が集まった前夜祭で、弔辞のひとつとして会葬者に手渡されたのが、『裏庭で』と題する牧歌的な調子の散文詩だった。その文章を選んだのは、長男の吉田照哉である。かつて善哉が、アメリカ・ケンタッキー州レキシントンにあったフォンテンブローファームを買ったとき、その隣りにあるクレイボーンファームの支場を営んでいたのがアーサー・ハンコック三世だった。ハンコックは善哉と照哉の友となり、助言者となり、善哉が最晩年に種牡馬サンデーサイレンスの購入を望んだときも、協力を惜しまなかった男である。その彼が、自分の父で、かのクレイボーンファームを世界最高と呼ばれる牧場に育てあげたアーサー・ハンコック・ジュニア前に創作したものだった。(二世)が亡くなる寸15                 旅路の果てに善哉さんの旅第六回

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