ECLIPSE_202303_9-16
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のときも善哉は、日ごろなら言わない言葉を口にしている。 「いや、おばさん……、この年になって俺は、和子と一緒になって良かったと思えるようになった」山田智子は答えた。 「なぜ、今ごろになってなのですか?」数カ月ぶりの退院で、北海道へ帰れるとの嬉しさも手伝って、善哉の口もなめらかに動いた。 「あとで和子が来るから、メロン食わせてやってくれ」 「はい、分かりました」まるで全快したような喜びもうかがえる。退院の日が来た。吉田和子が善哉の着替えを手伝いながら、いたわりの声をかけた。 「よかったわね、あなた」善哉は和子に答えた。 「いや、お前はそう言うけどな、実際の俺はお前たちが思うほど、いいわけじゃないんだ」善哉にそう言わせたのは、ペースメーカーと直結している心臓の具合の良さであった。聖路加を退院したあとの吉田善哉は、四日間、千葉富里の社台ファームに車を走らせた。「なぜ、千葉へ」と、浅井洋子をはじめ平山幸雄、はな夫妻の古参従業員は驚いたのだが、善哉の行動がいつもと違っている。浅井洋子はこう言う。 「兄はいちばん最初に父(善助)から一人で任された富里村に別れをするためにやって来て、名残りを惜しんだんです。あのときの四日間が最後で、もう再び千葉の地を踏むことはありませんでしたから」いつもなら北海道や東京みやげ、あるいは海外からの買いものをプレゼントする善哉が、牧場に据えつけてあるような置き物や掛け時計や額類を、剝がすようして「やる」と言う。まるで今、剥がさなくてもよいものまで外して、平山夫妻や従業員に「やる」と与えつづけたのである。 いつもとは違う空気が牧場に流れて、従業員たちは黙ったまま善哉のすることに従っていた。そして千葉で繋養している馬たち一頭ずつを丹念に見て、牧場全体や厩舎のそれぞれにもゆっくり目をこらして、静かに歩いて回った。千葉を出発すると、渋谷区の自宅でほとんど横になったまま一夜だけ過ごすと、翌日には羽田空港から千歳空港に飛び、社台ファーム千歳を任されていた長男・照哉に迎えられた。そして多くの従業員も息子夫婦も、手厚く善哉は招き入れた。それまでにはない丁重さだった。照哉が言う。その言葉には含みがある。「不死鳥のように(元気になって)七月に父は戻って来たんです。早来のゲスト用のログハウスに、手摺付きの洋風バスルームを付け、階段式だった玄関口は、車椅子でも出入りできるよう高低差の緩いスロープにし、そこにも手摺を付けておいた。以前の父なら激怒して、こんなものがいるかって怒鳴りつける男だったのに、今度は何も怒りませんでした」善哉の北海道での夏の滞在は始まった。善哉は角田修男獣医師に指示を与えた。何人もの従業員やその夫人や、場長や幾人もの獣医など、会いたい部下たちの名前を矢継ぎ早に並べて、ロッジのベッドの前まで来るように命じた。およそ三日間、善哉の面会がつづいていた時間に、賄いの山田智子は善哉の体調に変化が起きないよう祈っていた。善哉の体に微熱が始まったのは、八月六日からだった。わずかに体を前屈させて、山田に「おばさん、寒いよ」と訴えた。山田は善哉の膝を毛布で被い、善哉の両足に毛糸編みの靴下を穿かせた。自分の部屋に、他人を入れるのを嫌がるようになった。だが山田には、菊地を呼べと命じた。 「菊地いるか?」13                   旅路の果てに善哉さんの旅第六回

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