ECLIPSE_202303_9-16
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 平成二年、トニービンの初年度産駒としてその牝馬は産まれるのだが、四肢が蟹股状のO脚で産まれ、セリでは誰からも買い手はつかなかった。主取りで馬主になったのは、病気の善哉に代わって和子になった。誰の目にも明らかに不恰好な脚の馬に、機はたを織る姫の名がつけられた。さすがに当代一の騎手武豊が乗り、安田富男のユキノビジンをクビ差に退けた。このレースを父・善哉に見せるためICUの部屋に携帯用のテレビを持ちこんだのが、吉田晴哉である。ユキノビジンに差されるような恰好でゴールしたとき、「負けたんじゃないか」と善哉は言った。 「いや、勝ったよ」 「あ、そうか」ベガと武豊はつづく五月のオークスにも勝ち、病院のベッドで退屈をしていた牧場主に幸せをもたらした。優勝の口取りでは、もちろん吉田和子が手綱を握った。ベガは吉田善哉と和子、そして照哉、勝已、晴哉の家族に濃密な時間をもたらしてくれた。しかし、ベガの二冠達成を病室のテレビで追っていた牧場主のほうは、ふたたび心臓の調子を落としていく様子に見えた。 「あのころの主人は、時間を一つずつ数えながら毎日を生きていたという感じでした」吉田和子は言う。 「おい菊地、お前は用事があっても無くても、俺の顔を見に来い。一週間か二週間に一度は来い」そして善哉は、自分が死んだあとの社台ファームの行く先のことを絶えず口にし、くどいほど同じ言葉を菊地に伝えた。 「財産争いは(三人に)させたくないんだ。どうしたら社台をきちっと守れるか。有限会社社台ファームは、やはり三人兄弟でやるのが一番なんだ。一つでうまくやってくれよな」途中に何度か退院して、本宅に戻ることはあったものの、病院へ引き返す回数が多くなっている。吉田善哉の体力は、少しずつ脆くなっていったのである。六月下旬になって、ある夕べに聖路加病院に浅井洋子は兄・善哉を見舞いに行き、折りたたみ椅子に身を預けていた。「洋子、こっちへ来てごらん」ベッドの上から善哉が声をかけて来た。静かな口調で窓辺に誘われたので、言われるままに外の景色が見える場所まで歩を運んだ。「十字架が見えるだろう?」「えっ、どこに?」「古い病棟のいちばんてっぺんだよ」「ほんと、十字架だわ、見えるわ」「夜になるとな、銀座のネオンを浴びて、銀色に光る十字架が見えるんだ」「本当だわ、もう銀色の十字架になってるわ」洋子は、兄が自分に迫りくる死の時を、この銀色のクロスを見ながら考えていたのだと感じた。しかし善哉とはそれ以上、言葉は交わさなかった。洋子は二度と、クロスを見上げられる場所には行かなかった。七月に入った。善哉の体調が少し上向いてきて、病室には訪ねて来た菊地勇次郎と妻の和子がいた。善哉は電動ボタンで仰臥の角度の変えられるベッドに身を起こし、ぽつぽつと話をしていたときだった。やはり話題は牧場の未来のあり方についてだったが、三人ともゆったりとした話で終始していたのである。このとき、善哉の心模様が独特の言葉を呼び起こしたのに違いない。「何やらいろいろとあったが……、いや、俺の人生、いい人生だったなぁ」聞いた二人ともびっくりしたけれど、善哉のほうは二人のほうを見るわけでもなく、穏やかな目をして室内の宙に視線をただよわせていた。七月十五日に聖路加を退院する運びとなる。善哉はその二日前に、賄い係で来てもらっていた山田智子に、一個一万二千円のメロンを買って来させて、ふたりで四分の一ずつ食べている。“退院祝い”の儀式をしたのである。こMarch 2023 vol.25412                       

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