ツアーに、善哉は顔を見せなかった。ダジャレ連発の“善哉節”を愉しみにしていた客たちは、気の抜けた状態に陥った。やがて、少しずつペースメーカーとの“共生”にも慣れ、北光循環器病院を退院した善哉は、東京に帰れば築地の聖路加病院に入院と退院をくり返す“患者”になった。もはや、海外のセリ市と国内の牧場と競馬場を精力的に飛び回れる自由人ではなくなっていった。そして平成四年五月のオークスで、アドラーブルがノーザンテースト産駒最後のG1優勝。そして十一月の天皇賞ではレッツゴーターキンのトップゴールを「報告」によって聞いた。そのころ、善哉は菊地勇次郎に連絡をとり、社台ファームの後継者になれとの希望を伝えるようになっていた。聖路加病院の病室で、浅井洋子が耳にしている。 「おい洋子、聞いといてくれ。息子たちはまだ若くて世間知らずだから(後任者に)選ぶわけにいかない。だけども俺は間もなく死ぬ。そのときは、社台ファームの社長は菊地勇次郎になって欲しいんだ。洋子よく憶えておけ」我が身に迫り来る「死」に向き合い始めた善哉は、自身の意志と事業を継ぐ三人の息子たちに、世襲のルールづくりをしなければならなかった。そこで菊地勇次郎を何度も聖路加に呼び、浅井洋子が妻・和子も個々に同席させて「証人」に仕立てなければと考えたのだ。しかしこの提案に、菊地勇次郎が乗ってこなかった。「私はその任ではない」と言い、「三人の立派な息子がいます」と拒み、相手にしなかったのだ。このいきさつは長男・照哉も知っている。世襲とか牧場分割とかの話は、父親はむろん母・和子からも発案がなく、息子三人の側からも一切出されたことはなかった、と。 「父親がああゆう人だでしたから、みんな父親が自分で決めます。家族でガンガンやってもしょうがないので、母はいつもわざとおっとりとして、父譚た ん”照を哉提は案弟す二る人よもう、な牧破場廉の恥未漢来でにはつあいりてえ、な父か・っ善た哉、がと生一き笑てにい付るすののにで“あ事る後。に何もかもやらせたんですよ」妻子は四人とも、善哉の性格と性癖の前では「何も言わない」人でありつづけたのだ。平成五年一月になって、早来にいる菊地勇次郎に電話がかかって来た。聖路加の主治医からである。「これからたまに(東京へ)出てこれますか」「毎週でも行きます」「二月中には、社長さんと大事なことを話しておいて…」「そんなに悪いんですか、先生?」「いや。いつ(心臓発作が)起きるか判らない状態にあることを、分かっておいていただきたいと思いまして」菊地は何度も上京した。行けば必ず病室に和子夫人が呼ばれた。そして善哉は“三兄弟共同経営”を、菊地に念押しをした。聞きながら菊地は善哉が元気だったころ、夫妻と三人で談笑していた日に、善哉が快活に“分割経営”の具体案を喋った日を思い出していた。しかし、ときは過ぎた。今はもう、あの日ではなくなったのだ。菊地は何も言わず、早来町へ引き揚げた。平成五年も四月になった。十一日の第五十三回桜花賞が阪神競馬場で催された。病院に入院中の善哉に代って、吉田和子がベガの馬主登録をし、一番人気になった。騎手は武豊である。ベガは不思議な馬である。父馬は凱旋門賞に勝ったイタリア調教馬トニービンで、勝った直後に「売り」の話が出た。それ、買おうと動いたのが吉田ファミリーで、次男・勝已がキャセイ航空に飛び乗り、二日間不眠でローマに着き、争奪戦で手にした。11
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