大正十年生まれ(一九二一年─一九九三年)札幌市出身。社台グループ創業者。日本の先駆的生産者吉田善助氏の三男として生まれ、昭和三十年独立して社台ファームを設立。翌三十一年に初めてアメリカへ渡り、以来、常に世界へ目を向け、英国ロンドン郊外にリッジウッドスタッド、米国ケンタッキー州レキシントンにフォンテンブローファームを経営。また、一九七二年から三年連続キーンランドのセリ市においてリーディングバイヤーとなるなど、世界に通用する日本のホースマンの第一人者であった。吉田善哉善哉さんの旅ときは平成三年二月十九日である。馬産地に種付けシーズンが到来しようという時節に、社台ファームでは恒例の種牡馬展示会が開かれた。四〇〇人を超す生産者や馬主、調教師やその助手たちが集まっている。ノーザンテースト、リアルシャダイ、凱旋門賞馬のトニービンなどが前面に立っている。しかし、この春は様子が違った。一頭だけサンデーサイレンスが参列者たちの耳目を引き寄せ、キャロルハウスやジェイドロバリーもいる。フレンチグローリーも。案内役の従業員がマイクを持っていたのだが、そばに待っていた吉田善哉がマイクを奪った。拍手が沸いた。 「わたしが、どうしても日本に連れて来たかったサンデーサイレンスです」すぐに七十歳の誕生日を迎える老牧場主の矜プラド持イと満悦とが伝わって来た。だが短くしか語らなかった善哉に、体調の下降の兆しは訪れていた。 「血圧の高い方がいよいよ二三〇を超え、前立腺の手術のあと胆たん嚢のうも二センチ以上切除して、それでも兄は外国に馬を見に行くと言うんです。現地でくたくたに疲れて、どす黒い顔をして帰って来る。周りがいくら止めても、ベッドに横たわってくれません。気迫の塊みたいな人でした」実妹の浅井洋子の話しである。しかしサンデーサイレンスが種付けを始めるあたりから、善哉の心臓の不調が取り沙汰されるようになった。それでも善哉は東京へ飛んだ。五月二十六日の第五十八回日本ダービーには、ノーザンテースト産駒のイブキノウンカイ(母シエイディールー)が出走する。勝てば口取りしなくてはならない。残念ながら十四着に沈んだ。勝ったのは一番人気のトウカイテイオー。皐月賞につづいて無傷の二冠馬に輝いた。直後に羽田から千歳に、同行したのは吉田和美だった。和美は義父の疲労ぶりに驚いた。「ひどく辛そうでした。病院を勧めたんです」「いや大丈夫だ。勝已と和美の家へ行け」「でも病院です」「いいんだ、牧場だ」しかし翌朝、苫小牧市の沖病院から札幌市北二十七条の北光循環器病院へと運ばれた。やはり問題箇所は「心臓」だった。善哉の体にペースメーカーが埋めこまれることになった。このペースメーカーとの“共生”を強いられるようになってから、他人には判らない自覚症状が善哉を苦しめ始めていた。二カ月の入院となった。馬づくりに前進を止めない男が、一瞬だが「もう仕事は辞める」と言うようになった。 平成三年夏、十数台のバスに分乗する社台ダイナースクラブの会員たちの第六回旅路の果てにMarch 2023 vol.25410
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