ll一九四八年鹿児島県生まれ。早稲田大学文学部中退。演劇活動ののち、文筆生活に入る。『優駿』『Ga哉氏の生涯を丁寧に描いた『吉田善哉 るか』『馬の王、騎手の詩』『駿馬、走りやまず』『調教師物語』『騎手物語』『名馬牧場物語』『神に逆らった馬 つくった男』『君は野平祐二を見たか?』など、多数。op(連載 木村幸治のホースマン列伝)』などに寄稿。著書に吉田善倖せなる巨人』のほか、『馬は誰のために走七冠馬ルドルフ誕生の秘密』『凱旋 シンボリルドルフを木村幸治 《おかげさまで悲願のダービーを制覇することができました。父・善助が社台牧場を創設したのは昭和三年。中央競馬の先駆者、安田伊左衛門氏から第一回日本ダービーが昭和四年生れの馬を対象にして行われるということを聞いて、白老に約二千ヘクタールの土地を求め、イギリスから種牡馬一頭と繫殖牝馬十六頭を輸入したわけです。私が小学校に入学した年のことでした。四年前のシャダイアイバーのオークス勝利の祝賀会で、私は「三年のうちにダービーを制覇してみせます」と語ったことがあります。しかしダービー制覇はおろか、四歳牡馬クラシックにも縁がありませんでした。三年以内に……、は大見得ではないつもりでした。そうは言っても日本ダービー初体験の味は、やっぱり格別でした。興奮し、歓喜しました。大河の流れとなった社台ファームの勢いは、もう止まりません。ダービー制覇は二年、いや三年連続へと、夢を新たにしています》夢を、しかも会員向けに夢を語っているのだから、二年、三年連続と大言壮語しているのは理解できる。しかし半世紀以上も長い期間、その勝利実現を待ち望んでいた善哉の達成は、巨大な安堵感や喜びのあとに、大きな虚脱感を引き受けざるを得ない状態であっただろう。いくらノーザンテーストの神通力が確かなものであったにしても、そう楽観的に素晴らしい幸福が舞いこむものではないことも、吉田善哉は本心では判っていたはずなのだ。三人兄弟の長男にして、ノーザンダンサーの二歳子ノーザンテーストの“現物”を引き当てた照哉の言葉が、うなずけるように思える。 「何かをやってしまうと、今度はどんな新しい夢を作ったらよいのか。それまでと同じ日本ダービーではなく、スケールの違う新しい目的に取り組まなくては、人間はおかしくなってしまう。心の張りや緊張感が崩れて、容易には元へは戻れなくなってしまう。そこらあたりを親父さんは良く知っていたと思う」酒もタバコもやらず、趣味すらなかった父親について、照哉はこうも語った。 「親父さんには、もうこれでいいと安堵する心の休憩場所がなかった。ワンポイントの休憩地点すら作らない人だから、終点などあるはずがないんです。ノーザンテーストで初めてダービーを獲った。でもダイナガリバーが勝ったとき、テーストはすでに十六歳でした。もう次の種牡馬を買わなくちゃと、父は考えていました。心も体も休めない男でした」さて、昭和六十一年十二月二十一日の第三十一回有馬記念である。この年、昭和六十一年という年は、吉田善哉の生産馬たちが日本の競馬場で燦さん然ぜんとかがやいた画期的な年になった。ダイナコスモスで皐月賞、ダイナガリバーで日本ダービー、ギャロップダイナで安田記念を勝つなど、快事がつづいた社台ファームに、年間最後のグランプリレース、有馬記念が近づいていた。二頭が出走するのだが、ダイナガリバーが四番人気で、ギャロップダイナが十一番人気。ミホシンザンが図抜けた一番人気だった。そのミホシンザンを三着に退け、二分三十四秒〇のトップゴールをしたのはダイナガリバーで、二分の一馬身差の二着がギャロップダイナである。この年、社台ファームは初めて、日本中央競馬会の選ぶ「年度代表馬」としてダイナガリバーを出すことに成功した。吉田善哉は両手に華の一、二着馬を口取りし、満悦このうえない表情を作ったのである。(第五回・了)19 ダービー崇拝善哉さんの旅第五回
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