ECLIPSE_202302_13-19
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名は“お祖父ちゃんの夢”と名づけられた。 馬群が三コーナーの頂点にさしかかった。増沢とガリバーは、先行するバーニングダイナほか二頭との距離を少しずつ詰めた。一気に前に持ち出さないよう、馬との我慢比べをした。直線に入る前に、ダイナガリバーはするりと前に抜け出した。前には騎手も馬もいなくなった。増沢がガリバーを追った。田原成貴がジイちゃんの夢よかなえ、とばかり必死に追っているのが増沢には見えた。増沢の赤いヘルメットと六番の馬番号と、田原の黒いヘルメットと四番の馬番号とが、ゴール直前で大接近した。逆転があるか、と思えた。しかし増沢とガリバーが、それを許さなかった。詰まりそうで詰まらなかった。二分の一馬身。その差が、ダイナガリバーとグランパズドリームの間に歴然とあった。その瞬間、吉田善哉のなかが“沸点”に到達した様子だった。喜び、驚き、歓喜。それは善哉がどういった感動を味わってのものだったか。あるいは、善哉自身にすら明確には理解できない情動だったのかも知れない。少年の日から身体と心の奥底に潜ませてきた希望や祈りのなかに、父・善助との想い出が、よぎって現れたのかも判らない。善哉は、感極まったように表情を崩し、涙をその目に溢れさせた。鬼がとつぜん霍かく乱したような泣き顔で、体を震わせた。 「感無量です」表彰式のある芝コースの内側へと向かいながら、記者たちに囲まれた善哉は言った。ちなみに三着はアサヒエンペラーで、ラグビーボールが四着、ダイナコスモスが五着に来た。和田共弘のシンボリレーブは十着に沈んだ。 数日後に、北海道早来町の社台ファーム事務所前広場で、北海道版のダービー祝勝会は催された。昼と夜の二部構成で、昼の部は幾人もの調教師や日高の生産者たちが招かれ、夜の部は早来、白老、千歳、錦岡、空港など、社台ファームで働く従業員のほとんどが集合した。善哉がそこへ姿をあらわすと、おもむろに声を合わせた歓声が湧き上がった。「ゼンヤ、それゼンヤ、善哉、それゼンヤ」明らかに演出された「善哉コール」だった。日ごろは涙など見せない男が、瞳を赤く潤ませて、また泣いた。祝宴はスピーチや余興やカラオケで、どんどん盛り上がった。しかし北国の五月下旬の夜は、野外のイスに座りつづけるには寒過ぎた。屋外のはずれにイスを持ち出し、ほとんど飲まない酒を舐めていた「北の番頭」菊地勇次郎は、後ろから静かに肩を叩かれた。「おい、菊地、仕組んだのはお前だな」菊地はそれには答えずに、声も立てずに笑った。すると善哉は一人で、人混みから離れた草地の方へとゆっくりと歩いて行った。菊地は吉田善哉の穏やかに動く後ろ姿を見ていた。善哉の背中が「こっちへ来るんだ」と誘っているのが判った。善哉はスーツ姿のまま、草の上にしゃがみこんだ。菊地も、善哉とは二メートルほど離れた草に尻を下ろした。ふたりして、祝宴会場から聞こえて来る参列者たちの歌や、雄たけびや、楽器の音を聞いていた。やがて善哉は、小さく嘆息をついたあとで、宙を見上げたまま呟いた。「くたびれたよ、菊地」菊地はそれには答えずに、善哉がすぐそばにいることだけを感じていた。善哉がいくつもの薬を持ち歩いていることを、菊地は十二分に知っていたのだ。日本ダービーへの崇拝をつづけて来た吉田善哉は、会員向けの月報『サラブレッド』の巻頭ページで、次のように綴っている。February 2023 vol.25318                         

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