自の別世界で就職することができたのである。 だが三人とも、社台ファームから離れようとした気配はなかった。いくつかの理由が考えられる。その一つ。社台ファームの経営基盤が十二分過ぎるほどに大きな経済力を持ち、わざわざ“一兵卒”に身をやつして就職する必要がなかったこと。二つ目の理由。馬づくりの現場が魅力に富み、独自な工夫や才能がためされるまたとない場所であったこと。三つ目の理由。父親は三人の息子を、多くの従業員たちの前で叱責し、なじり放題にしたが、三人ともそれはそれで我慢すれば、心地よい高級管理職クラスの立場でいられたこと。何度でも書くが、父親善哉はこれでもかとばかりに言葉を荒げ、三人の息子を叱り、殴りつけるほどの恐怖を味わわせた。にもかかわらず三人の息子は一度も、父親のそばから離れたりはしなかった。社台ファームの経営基盤は強固で、善哉が何度も認めるほど「幸運に恵まれて来た」のである。土地運とも言うべきものがそれで、最大の幸運は父・善助が買った「千葉社台」(富里村)が成田空港開発の目的で売却をせまられたことである。予測を大きく上回る高額で、現金収入が飛びこんで来た。さらに北海道に求めた火山灰含みの牧場が、苫小牧市の要望で都市再開発目的で高額で売れた。さらに手離すことを決めたロンドンのリッチウッドファームも、アメリカのフォンテンブローファームも、高額で、しかも売りたいタイミングで手離せたのである。それらの売却益は、すべて善哉の一存で追加牧場のために活かされ、高額の馬を買えるばかりか、いくつもの採草地や放牧地が買い足しできたのだ。幸運は他にもあった。さんざん叱られながら、心をくさらせて働いて来たような息子だが、三人とも、実はそうではなかったのだ。次男・勝已が言う。 「仕事となると人間が違ったけれど、父は人好きでした。人に優しい。いつも自分を大きく見せていたけれど、他人にバカにされたくないとの思いを気迫にあらわしていましたね」 照哉がふり返る。 「僕たちの馬づくりは、一方的に親父に教わったのではないんです。父と三人の息子とが同じ社台ファームにいるという、偶発的に起きた環境のなかで、四人がたがいにライバル意識を持って、ひとつの列車の車輪になってきた。そして、従業員たちと列車を走らせてきたんです」長い歳月のなかには、こんな牧歌的な出来事もあった。ある日、社歴の長い女性古参従業員が男子従業員たちに取り押えられ、モンペをめくられ脱がされかけた事件があった。田村キチさんという彼女は、男たちに犯されると驚きパニックになったというが、それを命じたのは吉田善哉だった。顔にニキビ状の噴き出ものを幾つもこしらえていたキチさんは、お尻に抗生物質を大きな注射針で打たれ事なきを得たのである。噴き出ものは三日もたたないうちにカサブタとなっていった。牧場に暮らしていると、日常の雑多な出来事も日本ダービーを獲りたいと願う大きな祈りも一緒くたになって、関係者たちは幾つもの年月を乗り越えていく。吉田善哉は、みずからの着眼で選んできたノーザンテーストの確かな手応えに、大きな喜びを感じていった。「ノーザンテーストの仔は、なんでもこなしちゃうね。ダートも走るし、雨もいいし、芝も走る。長いところもこなすし、短いところでも走る。どんな系統の牝馬につけても走ってくれるから、じつに配合のしやすい馬だよ。短距離につけると短距離馬を出すし、長いのにつけると長距離馬を出す」昭和五十八年春、善哉はシャダイソフィアで桜花賞を手にし、五月には第五十回日本ダービーに参戦させた。結果は得られなかった。すでに皐月賞も利していたミスターシービーの“後方強襲”二冠目制覇に敗れた。秋にミスターシービーは菊花賞ももぎ取り、シンザン以来十九年ぶり、三頭目の三冠馬に輝いた。 つづく昭和五十九年は、シンボリ牧場のシンボリルドルフが無傷のまま三February 2023 vol.25316
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