しかし、国民が食糧難と敗戦パニックの“国難”に立ち向かっていた時期に、吉田善哉の頭上にあらわれた光明があった。東京都吉祥寺に住む長森貞夫宅の長女、長森和子との出会いである。善哉に打算が働いていたわけではない。日本ダービーがとりもつ縁で、その主催者側の副理事長をつとめていた長森貞夫家の食糧不足を案じた善哉が、長森家に物資を届けたのだ。日本ダービーを誰よりも崇すう拝はいしていた吉田善助の病死を知った長森貞夫が、善哉を手厚くもてなした。その家の長女・和子と善哉が出逢った。ふたりの結婚は、善哉と和子の相性もさることながら、故人となった吉田善助を長森貞夫がどれだけ評価していたかの証しのあらわれでもあっただろう。しかし若い二人(善哉が二十五歳、和子が二十四歳)が一緒になるとき、善哉が吐いたひと言も、決定打となったのかも知れない。善哉は和子の前で「必ずダービーを獲る」と、宣言した。この言葉を、当時の長森貞夫がどういうふうに聞いたのか、あるいは聞いていないのか。私は確認できていない。だが、そのひと言が、その後ながい生活を営むうえで、試金石となっただろうことは推測できる。善哉は、作家・宮本輝てるとの対談(昭和五十八年六月『第三文明』所収)の中で語っている。 「うちの家内と一緒になるとき『必ずダービーを獲る』と見得を切ったんです。いまでもうちのやつはそれを覚えてて、ときどきチクチクやられるんですよ」この告白は、対談後、およそ二年十一カ月のちに「日本ダービー初勝利」というかたちで結実している。 「感傷と役人が嫌いだった」とは、善哉と長い歳月つき合った作家・吉川良の言葉であり、善哉と語った多くの表現者たち、にも共通した認識でもあるようだ。感傷嫌いとは安っぽいセンチメンタリズムやナルシズムを嫌い、硬骨をむしろ歴然とあらわす男との謂である。役人嫌いとは、長い期間、競馬社会で生きて来たなかで、中央官庁や担当農水省がらみの対応策を、叩きのめすくらいに硬骨を貫いた、善哉の姿勢や態度である。その吉田善哉が、大嫌いなはずの東大農学部卒業の農林水産官僚の長女を、吉田家の籍に入れた。その結婚について、善哉や和子とも吉田家の三人の息子とも親交のある手嶋龍一(元NHKワシントン支局長)は、つぎのように語る。「善哉さんは知能水準の非常に高い人です。役人を大嫌いだった人が、生まれる子供のためにインテリ家庭の家から(和子さんを)もらわれたのでしょう。生まれた子は三人とも知能が高い。そして三者三様ともバラエティに富んだ才能を持っています」サラブレッドの生産者は、繁殖牝馬と牡馬の配合を思案するとき、やがて生まれる仔に肌馬の父の資質や才能がよく出ることを、知り過ぎるほど知っている。人間も例外ではないことを、善哉はおそらく十分考えたうえで和子夫人を選んだはず、と手嶋は言う。善哉は彼みずからも、自身の頭脳にひそむ知能の力を認めながら生きたはずである。しかし一般社会と対比して、社台ファームの総帥として生きてゆくとき、彼には誇れるだけの学歴はなかった。ならば社台ファームの指導者として生きてゆくうえで、三人の息子がそれぞれに一人前の指導者として、教養も学歴もないよりはあった方が得だと考える実用主義者だったと思える。その結果、照哉と勝已が慶應義塾高校から慶應義塾大学を、三男・晴哉が暁星高校から早稲田大学を出た。しかし三人の息子のここまでの経歴は、母親和子の側からしてみれば「牧場で三人とも生きることができなかった場合の、保険的な役割」を果たすはずのキャリアづくりだった。 照哉、勝已、晴哉の三人とも、父親と同じ世界で働きたくなかったら、独15
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