善哉さんの旅大正十年生まれ(一九二一年─一九九三年)札幌市出身。社台グループ創業者。日本の先駆的生産者吉田善助氏の三男として生まれ、昭和三十年独立して社台ファームを設立。翌三十一年に初めてアメリカへ渡り、以来、常に世界へ目を向け、英国ロンドン郊外にリッジウッドスタッド、米国ケンタッキー州レキシントンにフォンテンブローファームを経営。また、一九七二年から三年連続キーンランドのセリ市においてリーディングバイヤーとなるなど、世界に通用する日本のホースマンの第一人者であった。吉田善哉小学五年生のときすでに、馬の仕事を一生かけてやることを決意していたという。東京優駿大競走という、後でふり返ればそれが第一回日本ダービーに目されることになったレースを、目黒競馬場で観戦した体験が脳裏に焼きついている。北海道の社台牧場では、種付け場にある顕微鏡で、タネ馬の精子の動めく様をのぞきつづけてばかりいたという子供離れした“遊び”も、あながち遊びのひと言では片付けられない。本人も、息子にそれを許した父親・善助の寛容も、すでに「馬の仕事」と自覚したうえでの社会参加をしていたと考えると、早熟な旅立ちをした父と子の一光景と思えなくもない。父親はそうした馬づくりの現場に、率先して飛びこんで来た息子に、遊ぶ場を提供したつもりなど微塵もなく、息子も遊ばせてもらっている意識もなかったのではないか!?早く言ってしまえば「目の前で起きていることに夢中になり、先を急ぎ、次の課題に向かって突き進む気質は父子そっくりで」という側面は善助の妻であり、善哉の母であるテルがいちばん近くで見て、知り抜いていた様子であった。無類のせっかちさは「善哉は、かなりの部分がパパと同じ部品でつくられているのだから、多少のことでは挫けはしないわよ」と認めながら、テルは苦笑していたという。三人の息子のなかで、長兄と次兄が札幌一中へと進んだ。頭脳優秀という側面もあったが、父親からしてみれば二人が自分の傘下に近づかないモラトリアム(猶予)の期間を過ごしているために、面白くない。その点、三男坊の善哉は、まさしく自分の懐のなかにもぐりこんで来る。だからダービーの目黒競馬場にも連れて行けば、顕微鏡だって買い与える。父親にすすめられた空知農業学校で獣医師資格取りを目指した善哉の卒業前に、(千葉県印旛郡富里村に)四十ヘクタールの土地を購入。千葉社台牧場を用意したのも、業務拡大を兼ねた「善哉可愛さ」の思いの顕れにほかならない。父親の熱い息のかかった後押しに、小学生のころから馬産を決意していた善哉の意気がより高まっただろうことは、まぎれもない。しかも、父・善助は幾度も、生産者として馬主として日本ダービーへの挑戦をくり返していくのだ。しかし、昭和十二年に日中戦争は始まる。十八年十二月の閣議で競馬開催の中止が決まる。善哉にとって決定的だったのは、敗色濃い戦時態勢末期の昭和二十年一月に、善助が他界したことだった。千葉社台牧場の名義が、父・善助から北海道にいる長兄・善一に替り、善哉は補佐役の管理者になっていた時期に、疲労と栄養不足、結核性の体調不良でみるみる痩せた。敗戦後のGHQによる土地没収政策のあおりを受けて、善哉は前途真っ暗闇の状態に陥っていく。第五回ダービー崇拝February 2023 vol.25314
元のページ ../index.html#2