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ll一九四八年鹿児島県生まれ。早稲田大学文学部中退。演劇活動ののち、文筆生活に入る。『優駿』『Ga哉氏の生涯を丁寧に描いた『吉田善哉 るか』『馬の王、騎手の詩』『駿馬、走りやまず』『調教師物語』『騎手物語』『名馬牧場物語』『神に逆らった馬 つくった男』『君は野平祐二を見たか?』など、多数。op(連載 木村幸治のホースマン列伝)』などに寄稿。著書に吉田善倖せなる巨人』のほか、『馬は誰のために走七冠馬ルドルフ誕生の秘密』『凱旋 シンボリルドルフを木村幸治 吉田善哉はそのころ、どんなテクニックで馬を売っていたのだろうか。営業で“北の番頭”とファーム内で呼ばれ、善哉の信望の厚かった菊地勇次郎が記憶している。 「お客さんが真剣な目で、慎重に馬を眺めているときには、善哉さんは遠くから眺めているんです。そばには山本寿夫さん(東の番頭・東京営業担当)や勝已さんがいます。そこへおもむろに善哉さんがやって来て“あんたが買えるような馬じゃないですよ”などと言って、お客さんを怒らせる。相手の自尊心を刺激しておいて“なんだよ、そのくらいの値段なら俺にだって買えるぜ”という気にさせる。お客が帰ったあとで、菊地、あの親父はお前に何か言っていたかいって訊いてくる。それからあとの交渉はもう、山本さんや勝已さんに任せるんです」と菊地勇次郎は笑う。それが山本寿夫へのサポートであり、実子・勝已への実習教育でもあったのだろう。結局、数千何百万円に落ちついていく営業交渉は、二人の努力で社台ファームの誘う場所に流れていくのだ。そして昭和五十一年秋には、三男・吉田晴哉が長束安恵と結婚した。たまたま安恵は晴哉の母・和子の出身大学、白百合女子大学の後輩である。ふたりが出会ったのは晴哉が早稲田、安恵が白百合の女子バレーボール部のマネージャーどうしの関係で、両大学の懇親の場で口利きの仲になったのが始まりという。晴哉と善哉には、こんな逸話がある。高額の出費を惜しまずに馬を求めてくれるお客がある。ある日、晴哉が父親に冗談まじりで言った。「あの人、金銭感覚がないんじゃないの」。すると間髪を置かずに父は答えた。 「お前な、どこかがおかしい人間でないと馬なんか持たないぞ。俺もその一人だがな。まともで普通の人間が、馬なんか持つか」そしていよいよ昭和五十二年には、種牡馬ノーザンテーストが始動した。 体高一六〇・五センチ。社台ファームの種牡馬陣でいちばん背が低く、不恰好で、善哉もテーストのデビュー前に思ったという。「ああ、この馬を種馬として日本に買って帰ったら、きっとみんなに笑われてしまうだろうな」しかし、その新入りの最初の仕事ぶりがふるっている。言うまでもなく、それはまだオモテには顕れていない(三年後に現実となる)、繁殖牝馬胎内への最初の着床である。春の天皇賞と有馬記念を勝つアンバーシャダイ(母クリアアンバー)、桜花賞トライアルの阪神四歳牝馬特別と京成杯三歳ステークスを勝つシャダイダンサー(母ナッシングライクアダム)、東京障害特別を勝つピーチシャダイ(母シャダイクリアー)が、それである。ノーザンテーストの驚きの仕事ぶりは、毎年重賞勝利をしてのける“仔”を種はだ牝馬の胎内に送り続けていくことだった。昭和五十四年のタネ付けでは、オークスに勝利するシャダイアイバー(母サワーオレンジ)の“着床”があり、翌五十五年には三つのG1勝利馬になる“着床”に、生命の因子を送りつけている。すなわち、秋の天皇賞でシンボリルドルフを負かすことになるギャロップダイナ(母アスコットラップ)と、桜花賞を勝つシャダイソフィア(母ルーラースミストレス)、オークスを勝つダイナカール(母シャダイフェザー)と、その遺伝力の勢いは“獅子奮迅”である。(第四回・了)17             ノーザンテースト善哉さんの旅第四回

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