やがて善哉は言った。 「いい馬だ……だが、尻しっぽ尾に力があるかな?」のちにアメリカ、フォンテンブローファームに向かった善哉は、一度も腰を下ろすことなく、厩舎に直行した。そして、善哉に反応して顔を向けて来た二歳馬の横に割って入るなり、いきなり右手で尻尾をわしづかみにした。思い切り引っ張った。馬の方は平然として、抗あらがいもしなかった。善哉はなに喰わぬ顔をして、 「あ、大丈夫だな」と一声もらした。その瞬間まで、善哉は二歳馬の尻尾の力に、強くこだわり、その瞬間を今や遅しと待っていたのだった。 “社台ファーム次世代の種牡馬”と期待された馬が、「ノーザンテースト」という名前をもらった。父ノーザンダンサー、母レディヴィクトリアの血を、どれほど受け継いでいるのか。確かめたいのが人情である。三歳から五歳にかけ、英仏の競馬場で二十戦を闘った。合わせた勝利レースは五つである。G1のラ・フォレ賞、エクリプス賞、トーマス・ブライアン賞の三つが重賞勝ちだった。昭和四十九年の英国ダービーにも参戦したが、五着に終わった。 「エプソムダービーにノーザンテーストが出るとき、あのピゴットから乗ってみたいという連絡があったんだ。返事が遅れてしまってね。ピゴットには乗ってもらえなかった。返事が遅れていなければ、日本より先にイギリスダービー馬のオーナーになっていたかも知れない。それも運だね」とは、善哉の後日談である。(吉川良〈著〉『血と知と地』所収)昭和五十年、ノーザンテーストはヨーロッパでの競走体験を終えて、初めて日本の土を踏んだ。種牡馬としての仕事は五十一年に早来牧場で“筆下ろし”をする運びとなった。牧場に吹く風が変わってきていた。昭和五十年になってから、吉田善哉と社台ファームの周りで生きる人びとの間で、手触りできるものが実を結び始めていた。三月十九日、長男・照哉が結婚した。それまでイギリスとアメリカで、独身のまま孤軍奮闘していた照哉が、実弟・勝已の妻・和美の、日本女子大学時代から親しくしていた馬場千津と結ばれるのである。ふたりで生涯をともにする意志を固め、式後は照哉の持ち場であるフォンテンブローファームに旅立った。すると今度は、ワジマが進軍を始めた。調教師ディマウロの厩舎に預けられて、三歳時に四戦し二勝した。四歳夏に『メアリーランダー・ハンデ』(距離一八〇〇メートル)でコースレコード。八馬身の大差勝ちをした。八月から九月にかけて、三つの重賞レースに連勝。そして秋の大レース『マールボロカップ』で、アメリカの古馬最強馬のフォアゴーを負かした。善哉が喜ばぬわけがない。続く『ウッドワードステークス』で、フォアゴーに敗れたのだが、フォアゴーに匹敵する走力ありと、競馬世界に認知された。で、「ここらが潮時だろうな。あとは種牡馬としての魅力と価値の方が、高そうだ」と、善哉を含めた三人の(分有)所有者は決めたのである。あとは当初から約束していたシンジケートを成立させ、三分割の配分で行くことにした。決まった額は七百二十万ドル(約二十五億円)である。二歳時のワジマの買い値の十二倍に膨らんでいた。これが当時の世界競馬のシンジケート価格の、史上最高額になった。ワジマの存在が、社台ファームと吉田善哉の“やや苦しかった時期”を、救ったのである。January 2023 vol.25216
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