ECLIPSE_202301_11-17
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 フィニィの助言を、善哉は懐に仕舞っておいたのだ。そのヒントを実践するタイミングが、眼前に迫っていた。昭和四十七年の春である。フォンテンブローファームで働いている息子に電話を入れたすぐさま相手は受話器を取った。 「元気か?」 「あ?うん」 「舐められんじゃないぞ、アメリカの従業員たちに」 「平気さ。厳しさじゃ親父さん以上かもね」 「照哉……、今日の用事は別なことだ。サラトガの今度の二歳セールで、ノーザンダンサーの仔を買え」 「親父さんも来るの、こっちへ」 「行かないよ。言っとくけど一頭だけだ。いちばんいい二歳をな。カネは二十万ドル、いやお前が絶対に逃がしたくないやつなら、三十万ドルを超えたって構わんよ」照哉は厳粛な気持ちになった。父親の本気が伝わって来た。筆者は思うのだが、日本人の親と子の会話で、いったいどこに善哉・照哉のような九千万円出しても構わない式のやりとりを電話一本でする父子がいるだろうか。スケールがケタ外れの電話である。 「いいか、照哉。お前のその眼まなこで、馬の中味を見抜くんだぞ。ノーザンダンサーの仔だから、不恰好でもいい。大事なのは遺伝子だ」 「そうするよ」 「買えたら、電話を入れること」 「分かった」ノーザンダンサーの二歳仔は、この年、八頭がセリ市に出された。なかに一頭、栗毛でハナ先に、白いペンキでも、バケツごとぶちまけられたような流星のある馬がいた。元気な馬だった。味さかな覚こと“ノーザンテースト”。 小ぶりで、膝から下が短かった。 流星はハナ先からはみ出していて、左目にまでかかっていた。目に力のある仔馬だった。二年ほど前から、アメリカのセリ市で、善哉と一緒にノーザンダンサーの仔を照哉も何度も見て来た。そのとき、息子の傍らに立ち、「どうしてこんなにいい仔を、ノーザンって出すのかな」と感動してもらす父親のつぶやきを、息子は記憶していた。その言葉が照哉の耳もとでよみがえり、眼前の栗毛馬をふり返ったら、体に「ズキン」と電流が走った。そこで近くにある電話のもとへ走った。「いたよ。どうしても買いたいやつが」「そうか。じゃあ、買え」そのセリ市では、意外にも照哉にセリかけて来る人間はいなかった。十万ドル(約三千万円)で結着がついた。二歳馬の購入報告をした。「最高の買いものができたよ。……早く日本に帰って、北海道の魚が食べたいよ」善哉は何も言わずにそれを聞いていた。なにげなくつぶやいた長男・照哉の空腹とニッポン恋しさの心から、口をついて出た言葉。その言葉から、二歳馬の名前は決まるのである。北国の社台ファームに購入され、まずフォンテンブローファームに移動した二歳馬は、照哉によって立ち姿が撮影された。東京の善哉に送るためである。「買い」は命じられたものの、一刻も早く姿を見たがるのが、せっかちな父親であることが、明白だったからだ。写真が東京に届いたとき、角度を違えて何枚もスナップされたそれを、しばらく黙って眺めていた。15                     ノーザンテースト善哉さんの旅第四回

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