アメリカ競馬最大のレースであるケンタッキーダービーを、レコード勝ちした。その快挙も報道写真も、世界中の競馬愛好家に、またたく間に広まった。善哉も興奮した人間のひとりであった。「アメリカ競馬史上、九頭目の三冠馬か」と騒がれ、写真ではその“らしくない不恰好な勇姿”が、かえって注目を浴びる理由にさえなった。だが三冠目の舞台、ベルモント・ステークスで三着に沈んだ。そのあと故郷のカナダに帰ったノーザンダンサーは、カナダ最大のレース『クイーンズ・プレート』に完勝した。不運はそのあとにやって来て、競走馬としては致命傷の屈腱炎を発症する。引退の運びとなる。通算成績は十八戦十四勝であった。昭和四十年に五歳で種牡馬になったのだが、ノーザンダンサーの種付け料は一回一万ドル(当時三百六十万円)だった。このとき、トロントにあるウインドフィールズファームにノーザンダンサーはいたのだが、日本から視察に行った吉田善哉は対面している。日本人としては、吉田が最初に出会った男である。先述した通りの外見だったから、 「馬はサラブレッドなんだけど、ペルシュロンかノルマンみたいな馬だな、そういった感覚で見て歩いてた。まるでドサンコみたいなんだな」という感想である。ところが、である。ノーザンダンサーに関する種牡馬伝説は、それ以降が急速に盛り上がっていく。種牡馬生活二年目の仕事で送り出していたニジンスキーが、一九七〇(昭和四十五)年のイギリス競馬で、なんと三冠馬に輝いたのである。世界中をあっと言わせた。当時まだ十歳に過ぎなかったノーザンダンサーは、英国競馬界でリーディングサイヤーに輝いた。翌四十六年には、アメリカ競馬界でもトップを奪った。ノーザンダンサーの株は、みるみる高くなっていった。 現役競走馬時代の卓越した走力で、すでに抜きん出ていたのだが、引退後に示したケタ外れの遺伝力の強さでも、異様なほどの能力を示したからだ。なにしろニジンスキーに“仔ダネ”を提供しただけにとどまらず、リファール、ヌレイエフ、ダンジグ、サドラーズウェルズなどの超大物競走馬を輩出させた。評判は評判を呼んでいく。種牡馬デビュー十五年後の昭和五十五年には、わずか一度の種付け料が十万ドル(二千四百万円)。さらに六十年には九十五万ドル(約二億五千万円)と、ケタ外れに高騰するのだ。まさしくノーザンダンサーは“神の種牡馬”と呼ばれた。どんな配合に挑んでも、“父である遺伝子の、強烈な自己主張の強さ”を見せつけていくのである。早くから、海外競馬のレース結果や周辺情報に気を配っていたのが、吉田善哉であった。ノーザンダンサーにまつわる動きも注意を払っていたのだが、苦笑しながらもつぶやいてはいた。「どうやら、ノーザンダンサーの仔だな」と。善哉は、準備段階をしっかり踏んでいたわけである。日本人がとても手の届かない高値のセリ市で、それでもどうしても手に入れたい馬がセリに出るとき、どう対処したらよいのかである。亡父・善助が持っていたアメリカ人人脈の中に、ファシグティプトン社のフィニィがいた。「方法はあるよ、ミスターヨシダ。それならセレクトセールの“二歳セリ市”に几帳面に行くこと。そして氏素性のいい馬にしっかりとポイントを絞り、買ってみたらどうだ」January 2023 vol.25214
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