ECLIPSE_202301_11-17
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字が、十一年連続に届かなくなることが、日を追うごとに現実に近づいて行ったのだ。日本一の“金看板”をみずから外すという事態は、優秀な種牡馬がいない社台ファームの実情を外にさらし、生産馬が売れなくなる(販売が非常に厳しくなる)先ゆきを意味する。馬産地の経営者や中小牧場の主から、収入を得てきた種付け料の減収につながる。社台ファームに代わって日本一を確実にしたのは、馬産地日高で後発の西山牧場である。業界に参入してわずか八年の相手に逆転されることが、善哉の屈辱であり、激怒の理由だった。その状態を、吉田和子はどう感じていたのだろうか。 「何かが起きているとは察知できました。でもいつも、何の説明もしないで一人で行動する人ですから、こちらも訊きません。照哉や勝已に、そうした態度で危機感は伝えていたとは思うんですけれど」吉田勝已がつぶやいた。 「あとを継いでくれるタネ馬がいないんですから、あのまま行けばウチの牧場はこの日本から消滅して、姿も形もなくなる危機ではあったんです」勝已が指摘した“あとを継ぐタネ馬”の可能性については、先述したように、善哉がただ指をくわえて傍観していたわけではなかった。善哉は決して無策の男ではなく、考えに考えて牧場を大きくするために、策を打ち続ける男だった。イギリスにリッジウッド牧場を買い、アメリカにフォンテンブローファームを買い、国内の牧場用地は買い足す、牧草地の改良をする、飼料の研究をする、腕の良い人材を求めて声をかける。多策の男であった。同じ年の秋に、アメリカ、キーンランドの二歳セールで、二人の同調者を募り、三人で『ワジマ』を買っている。窮しても、必ず打開策は打っておく。その意味では実にエネルギッシュで、落ちこんだかと思えば、反対側に風穴を開ける用意を企てる男でもあった。 昭和二十三年二月に、新冠町の馬産農家に生まれた秋田博章は、小学一年の秋に北海道を襲った台風十五号が忘れられない。四千三百三十七トンの洞爺丸を転覆させ、千百五十五名の人命を奪った台風の、馬や牛、羊も流される新冠川被災を幼い目に焼き付けた。小学四年のころ「町長よりも獣医の方が偉い」と思っていた。まるで正義の使者のように、瀕死の馬や牛の生命を救う獣医の姿を見て、憧れた。やがて獣医となった男は、善哉に声をかけられた。「ウチの繁殖二百頭はいるが、すべての直腸検査をやってもらえないかね」拡大を続けるいっぽうの社台ファームに「腕利きの獣医が多数欲しい」と願った吉田善哉は、秋田の仕事ぶりと、人望を人づてに聞き、直接本人と交渉に出かけたのだ。秋田は丸二日間で“直検”をやってのけた。のちに秋田は馬産地一帯で“人買いの秋田”との異名を与えられることになった。優秀な獣医たちの相当数に声をかけ、多くの人材が社台に向かって流れたのだ。「背は低いし、不恰好な体でね。でもスピードとスタミナが抜群で、カナダの年度代表馬になった。この馬の仔が、まともな体つきで生まれたら、どんなに凄いオトコ馬が出るだろうって、期待は寄せていたんだ」それは吉田善哉にとって悩ましいほどの期待であり、願望であり、空想上の新生児誕生でもあった。この馬とは、一九六一(昭和三十六)年にカナダで生まれたノーザンダンサーである。日本の馬でいうなら、のちに五冠馬になるシンザンと同齢にあたる。この馬のことを、善哉は初めから知っていたわけではない。カナダに生まれ、カナダで走ったこのノーザンダンサーの所有者は、E・Pテーラーというカナダ人だった。テーラーに使われ、まずカナダの三歳チャンピオンになった。四歳になってから、舞台をアメリカ競馬界に移した。 そこでさらに強くなった。13                   

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