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善哉さんの旅大正十年生まれ(一九二一年─一九九三年)札幌市出身。社台グループ創業者。日本の先駆的生産者吉田善助氏の三男として生まれ、昭和三十年独立して社台ファームを設立。翌三十一年に初めてアメリカへ渡り、以来、常に世界へ目を向け、英国ロンドン郊外にリッジウッドスタッド、米国ケンタッキー州レキシントンにフォンテンブローファームを経営。また、一九七二年から三年連続キーンランドのセリ市においてリーディングバイヤーとなるなど、世界に通用する日本のホースマンの第一人者であった。吉田善哉フランスの有名な馬産家マルセル・ブサックは、かつてこうもらしている。 「サラブレッドの生産は、非常に投機性が高い。だから資金力の十分でない人が、手を出すべきものではない」この警句にあてはまる事態が、ちょうどあのころの吉田善哉に起こっていたのだろうか。善哉の三人の息子たちは、父親の様子がおかしいのではと、それぞれに思っていた。吉田家が持っている金の総量は、善哉が見せたりしないから誰にも判らない。なかでも馬のために使える金額も、誰にも相談しないから事情が透けて見えない。しかし、善哉がとっている態度や、行動で、精神が動揺しているのが伝わってくるのだ。種牡馬や牝馬を買いまくる。それが正常な買い方ではないのだ。台所は“火の車”に陥っているはずなのに、まるで機関銃でも撃ちまくっているような勢いだった。種牡馬ガーサントの「使用期限」が過ぎているのだから、善哉の動揺や不安は判らないでもない。しかし、とりわけ種牡馬の買いまくりが度を越していた。ラティフィケイション、ハッピーオーメン、グレイモナーク、ナスコ、マリーノ、バウンティアス、ヒッティングアウェー、ハイハット、ボールドアンドエイブル、ガンボウ、エルセンタウロ、ラッサール……。どの種牡馬も、自分からアメリカ、カナダのセリ市に出かけ、手当たり次第に買ってしまうのだ。ガーサントが老衰によって死亡するのは、昭和四十九年五月十日の正午ごろである。それまで放牧場にいたガーサントを、種牡馬厩舎ではなく独居用の馬房に誘導した。そこでガーサントは、ごろりと横になった。数十分後、人が気づいたときには、静かに息を引きとっていた。もう自分の身の上が分かっていたのかも知れない。二十六歳の大往生であった。場長の海老吉六は、使用人たちの気持ちを代弁して言った。(貢献してくれた名馬だったから、せめて記念碑を建てて、その下に)善哉はそれなどに耳を傾けず、ガーサントは傍らの草の下に埋葬された。善哉の気持ちにも、予算のやりくりにも、余裕がなかったのかも知れない。吉田勝已がふり返る。「当時の親父さんは、頭がこんがらがって、おかしくなっていましたね。メチャクチャ馬を買いまくるんです。財布が底をついているのが、私にも見える。そして、私や従業員に、なぜ馬が走らないんだと吠えまくる。息子の私が契約を済ませた売り話を、電話一本で破談にする。何でもかんでも、壊したい放題でした。そばにいたら怖くって、手もつけられない状態でした」吉田善哉の怒りと焦燥には、原因らしいものはあった。 昭和四十八年に、それまで十年連続して生ト産ッ者プ賞・金リ獲ー得デでィ日本ン一グだった数第四回ノーザンテーストJanuary 2023 vol.25212                 

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