ECLIPSE_202212_17-21
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手狭になっていることを国も航空業界も認める時代が来ていた。牧場という「土」に生きてきた吉田善哉の嗅覚に、このころから「土地買いが起きるのでは」との気配が漂いはじめていた。ほどなくして千葉富里村に隣接している成田市三里塚に、新東京国際空港の候補地が決定した。京成電鉄や空港公団、あるいは大手と中小をふくむ不動産業者たちが、賑々しく動き始めた。まずは予定地を立ち退く農家のための代替地を探し、空港近くに進出する企業のための土地探しも同時に動き出したのだ。善哉はこのころ敢えて動かなかった。黙って周辺を観察していた。牧場用地の拡大策にも、繁殖牝馬の多数購入にも打って出ないでいた。父・善助のような「借金策」も考えなかった。ある日、業者たちは音を蹴立ててやって来た。ダムから溢れた水が低い周辺集落をのみこむように、勢いよく流れてきた。善哉は牧場の外郭部から売り始めた。すべてを売るつもりはなかったし、残すべき千葉社台のイメージを壊してはならなかった。だから一括で求められた場所でも、一部は売ったがまとめ売りはしなかった。善哉自身も驚くほど、売却益は貯まった。それを資金にして、自分の牧場が買いたいのだが、善哉はそこで熟慮をかさねた。日本で有数の馬産地日高には、中小規模の牧場がひしめき並んでいた。一族親戚や知人友人の「しがらみが多すぎる」場所に、敢えて割っては入らなかった。地価の高すぎる関東周辺では、中規模以上の土地購入はできそうもない。そこで善哉は、和子の望みを先にくんで息子三人との教育環境を東京に変えた。中古住宅だが東京都港区に家を買い、千葉の牧場は従業員を増やし、自分だけを専任にした。妻・和子への依存を減らし、和子の家庭内自立を選んだ。子が育つ環境としての場を“片田舎の牧場”(和子談)から、東京都の文教地区に変えたのだ。昭和三十三(一九五八)年、北海道胆い振ぶりの兄・善一が経営している白老社台牧場の隣接地に、七十ヘクタールの牧場用地を買った。そして翌三十四年には錦岡(苫小牧と白老の中間地)に百三十ヘクタールを買った。さらに昭和三十九年に勇払郡早来町に土地を手に入れ、四十五年にかけて総計二百ヘクタールの購入を完了させた。その翌四十六年には千歳市東丘に三百ヘクタールの買収購入にとりかかり、七年後の昭和五十三年には全面開場にこぎつけている。ちなみに先買いした錦岡は、苫小牧の都市化計画でベッドタウンが必要になったため市に懇願されて、(購入時の値段に上乗せした額で)一括売却するという事態まで起きた。 「あの時……」と、のちに吉田善哉は和子の前でつぶやいている。 「関東とか首都圏とかに散らばって拡大するのではなく、北海道に二つ目の牧場を選んだのが正解だったよなあ。市街化が進むばかりの(地価がつり上がるだけの)首都圏では、いずれ失敗したかも知れんが、北海道に戻ったから、その先がまた開けたんだと思うよ」その当時をふり返って、和子が筆者に語ってくれた話がある。 「関東であれ、北海道であれ、どこで時間と場所を見つけるのかしら、と首をかしげたくなるくらい。とにかく一生懸命だったんですよ。どうも北海道の地形ばっかりは、雪が降らないと(輪郭が)見えにくいんだ。そうぼやいて、寒波厳しい季節にひとりして、何度も何度も土地探しに外出したんです。よく気力が続くなあと驚くぐらい、必死で歩き回ったんですよ」千葉富里村が一つ。北海道に一カ所目、二カ所目と展開して、大局的に二つの牧場を構えて生産と育成調教の舞台を準備していった。善哉ひとりの夢想を実現させて進んだ社台ファームの方式は、日本初の“二元育成法”の試みと話題を呼んだ。歩調を合わせて、吉田善哉のリーディング・ブリーダー・ランキングが急上昇して、日本馬産界で注目を集めた。社台ファーム独立六年目(昭和三十六年)に全国十五位だった成績は七年目(昭和三十七年)に五位、八年目(昭和三十八年)にして初めてリーディング・トップの座にたどり着き、九年目以降他を引き離しはじめるのである。和子と二人してアイルランドから買って来た種牡馬ガーサントが、善哉のトップ君臨と時期を同じくして仕事を始めている。昭和三十七年の初仕事から四十九年に死亡するまでの十三年間、仔づくり                 December 2022 vol.25120

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