糞ろを片づけて杉の若わか苗なえを無数に植えた。善哉は激怒した。だが怒りの持って行く先が判らない。千葉県印旛郡富里村の農業委員会の役員になった。土地政策に対抗するため、会合や勉強会、説得力を養うための資料づくりに奔走した。新しい農地法についても、慣れない難解な文章をくり返し読んだ。だが、いつまでたっても進展はなかった。電柱柱という電信柱に、手描きの「反対」のビラを貼り歩き、放牧地の馬ぼ (俺がいる。俺が吉田善助の山林を受け継いでいる)事態は動かなかった。しかし没収がすぐさま具体化する方向にも動かなかったので、牧場は以前のままで経営していた。この時期の我慢と忍耐の日々が、吉田善哉にのちのちまで持続する“底意地のしたたかさ”のマグマを培ったといっても過言ではあるまい。おりしもその時期に、三人の男児をさずかっている。昭和二十二年に長男・照哉、二十三年に次男・勝已、二十六年に三男・晴哉である。あまりに人使いが乱暴で、妻を妻とも思っていない様子の善哉に、いつか和子は「離婚」を切り出そうと考えていた。だが、言おうとした夜は、善哉がそばにいない。気がつけば、三人の母親になっている。長男も次男も藁とほこりにまみれながら、父親の仕事の真似事をしている。わずかに齢の離れた三男坊はあどけなく笑って、兄たちを応援していた。しかし昭和二十八年、善哉と和子が待っただけの「返礼」は、ささやかながら届いた。当たり前の報せだが、吉田善哉が“在村地主”と認められ、四十ヘクタールの土地が払い下げになったのだ。 (何が払い下げだ。もともとここは、吉田善助が買った牧場だったんだ)叫びたかったに違いにない。だが、黙ったまま受け止めた。もう三十二歳になっていた。一年あまりが過ぎた昭和三十年一月十八日に、母・テルが死去した。それまで善哉はいくつの思案を抱えていたのだろう。同じ年のうちに、独立を決意している。土地四十ヘクタールと、繁殖牝馬八頭を道連れにしての旅立ちだった。独立とは、二人の兄との訣別を意味した。喧嘩をしたわけではない。三十四歳。自分は自分の道を歩こうと意志を固め、近いうちに法人化して『社台ファーム』という社名を名乗ろうと考えていた。あくる昭和三十一年にアメリカ・ケンタッキー州に向かった。牧場と競馬場の視察旅行が目的だった。ルックジェットとミストラクルの二頭の繫殖牝馬を購入しての帰国となった。アメリカを体験して、善哉が学んだのは、そのスケールの大きさと豊かさだった。多くの識者と競馬関係者たちにそう語っている。筆者の推測だが、善哉は日米の競馬文化の違いを痛感し「日本男子ひとりで米欧の競馬社会に行くべからず」と思ったはずである。日本に置いてきた妻・吉田和子の存在を、いとしく感じたに違いない。その証拠が、昭和三十六年の善哉の“英仏視察旅行”に見える。この旅では大きな鞄に、和子のための衣服類を詰めこんだ。どこも一緒に歩いた。そしてアイルランドで当時十三歳の種牡馬ガーサントに着目し、気に入り、購入した。翌昭和三十七年のガーサントの日本到着が、のちの『社台ファーム』に進撃をもたらし、善哉の生産者人生に大きな変化が始まるのである。和子に同伴してもらって欧州旅行を終えてから、善哉は和子を「使用人」のようにこき使う牧場主ではなくなりつつあった。結婚したばかりのころ、和子は夫の背後に「注射器」を感じていた。 「おかしな治し方をしたから、俺の体は十年もたないから、覚悟をしておけよ」何度か聞かされて、不安もどこかに感じていた。しかしガーサントを購入する旅をしたころには、その十年を越えて夫は元気だった。 「夫唱婦随」の夫婦の道へ踏み出していた。羽田空港の一つだけで、国内線も国際線もまかなってきた航空機の発着が、19
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