ECLIPSE_202212_17-21
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善哉さんの旅大正十年生まれ(一九二一年─一九九三年)札幌市出身。社台グループ創業者。日本の先駆的生産者吉田善助氏の三男として生まれ、昭和三十年独立して社台ファームを設立。翌三十一年に初めてアメリカへ渡り、以来、常に世界へ目を向け、英国ロンドン郊外にリッジウッドスタッド、米国ケンタッキー州レキシントンにフォンテンブローファームを経営。また、一九七二年から三年連続キーンランドのセリ市においてリーディングバイヤーとなるなど、世界に通用する日本のホースマンの第一人者であった。吉田善哉牧場で初めての仕事をする前に、和子が善哉に言い聞かされた文句である。 「おい、腰をぬかすんじゃないぞ。やって来る人間の数が、ハンパじゃないからな」役場、警察、仲買人、もの売り、馬具屋、飼葉屋、鍛冶屋、水道屋、電気工事屋、隣人、職さがし、郵便屋そのほか。たいていが愛想のよくない、うかぬ顔をして来るという。和子は、べつだん驚きはしなかった。仕事がら誰がやって来ても不思議はない。主人である善哉に取り次げばいいことだ。しかし、それが間違いだったことに気づかされた。取り次ぐ夫が見つからないのだ。牧場の面積は決して狭くはない。声に出して呼んでも返事がない。訪ね人を二、三人待たせたまま、和子が場内を走り回って探すこともあった。どこで作業しているのか。居留守をつかわれているのではない。思いつけばすぐさま行動に移す“まっすぐ型”の性格に泣かされるのは、和子の方だ。善哉の不在を責めると、叱り声が飛んできた。 「だから腰をぬかすなと言っただろう。来る客にはお前がぜんぶ対応して、用がすむまで相手してから帰すんだ、このバカ」 「バカ」という言葉は、新婚早々から生涯飽きることなく使った。和子ばかりか育ちゆく三人の子供、信用している使用人たちが罵倒され、けなされ、浴びせ放題だった。ほどなくして、善哉の無言のままの外出は日常茶飯事だと和子には判った。まさかと思うが北海道に出向いて、五日も六日も帰らない場合もあった。 (あらワタシ、使用人に雇われただけだったの)ケロリとして帰宅して、何も詫びない夫に、腹を立てても無益なことを知らされた。自転車で役場や買いものに出かけ、砂利道にタイヤをめりこませ、ハンドルを取られた日も、一度や二度ではなかった。そんなとき和子は富里村の野辺に立ちすくみ、 (ワタシは使用人、使用人)と独り言ごちた。父親・長森貞夫を納得させての結婚だったから、出発して間もない離婚などできない。和子は自分を戒めた。しばらくして、すでに妊娠した体になったことに気づかされた。昭和二十一年秋に、日本競馬は再開されている。しかし元気だった創業者、吉田善助を失ったばかりの善哉には、何の決定権もなかったから、どこか違う世界での“再開ばなし”にしか聞こえなかった。千葉社台牧場は、善助の名義を引き継いだ長兄・善一のものになっている。善哉はとりあえず代理の牧場長だった。だが未亡人になった母・吉田テルから、千葉は善哉の所有地になるとの決定が、いずれ下されるものと信じていた。ところが、GHQの「農地解放策」が出された。千葉社台牧場四十ヘクター               き 地主」というのが理由だった。ルのうち九割は没収。当局からそう言って来た。名義人の吉田善一が「不在第三回牧ま場ばのメルヘンDecember 2022 vol.25118

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