ll一九四八年鹿児島県生まれ。早稲田大学文学部中退。演劇活動ののち、文筆生活に入る。『優駿』『Ga哉氏の生涯を丁寧に描いた『吉田善哉 るか』『馬の王、騎手の詩』『駿馬、走りやまず』『調教師物語』『騎手物語』『名馬牧場物語』『神に逆らった馬 つくった男』『君は野平祐二を見たか?』など、多数。op(連載 木村幸治のホースマン列伝)』などに寄稿。著書に吉田善倖せなる巨人』のほか、『馬は誰のために走七冠馬ルドルフ誕生の秘密』『凱旋 シンボリルドルフを木村幸治 フランスのことわざ(『酒の寓話』)である。 思わずにんまりしたくなるような響きがある。ダメにされそうな有害なものなら、酒も車も女も遠ざけてしまえばいい。しかし古今東西、男たちは不謹慎な生きものなのかもしれない。近づき過ぎて人生を棒に振った男たちの数は、もしかしたら果てしない!?吉田善哉にも、自分をダメにする女性ではなく、幸せに暮らせる家庭を求める思いは深まっていた。だが父・善助を失い、病弱な二人の兄を補佐すべき日常に変わりはなかった。 「ちょうどこの時期は毎年大雪が降り、人間も馬も瘦せ細った。馬は木の生皮を嚙かじって飢をしのいでいた。牝馬は痩せている方が受胎率が高く、しかし栄養失調で流産させたり、生まれても育たなかったりした時は可哀想で涙が出た」(前出『新潮45十』) 「だが敗戦直後からの生活は厳しく、十里の道を二日がかりで馬車で牧草を運んだり、馬糞の下に米を隠して運んだこともある。ありとあらゆる手だてを講じて人と馬の命をつなぎ、サラブレッドの育成だけは絶やさなかった。だがサラブレッドばかりではなく、私自身も種付け、ではなく結婚をして……」(同誌)この回想には冗談をまじえているが、恋愛への思いを口にしたくだりがある。白老に住む家族のために“闇米”を運んだりしたのだが、その食糧の運搬先が、ある時、東京都吉祥寺の長森貞夫宅におよんだ。 「私どもの家の食糧不足を心配してくれて、北海道で調達した米や味噌、農産物や海産物の干物などを背に負って。父・善助さんの死を伝えにも来たのでしたが」貞夫の長女・和子の記憶である。長森が東京競馬場の場長をつとめていたことから、善助の知り合いだった長森は驚き、その夜、善哉を吉祥寺に宿泊させた。この夜はじめて善哉は長森和子と対面し、半年違いの年下で乗馬を趣味にしていることも知った。そのあと、二度三度と物資を運んで長森家の門をくぐった善哉は、和子との出会いの印象を「びしりと背筋も鼻すじも通った、姿勢のいい人だった」と知人にもらしたものだ。 和子が私に話してくれたのは、そのあとの経緯である。 「相手は、私に直接じゃなく、父親に結婚を申し込んだみたいです。想像以上に善助さんを知っていた父は、やがて“これは面白い縁談だ”と笑顔で喜び始めたんです」千葉から訪ねてくる善哉と何度か会ううちに「姿の美しい人」と、和子も感じていた。結婚ばなしが進展する前に、二人だけの席で、和子は善哉に声をかけられている。「どこの馬場で、乗馬をしているんです」「……馬事公苑です」「なら一度、富里に来てみませんか。いくらでも走れる周回も、直線もありますよ」「行ってもいいんですか」「私が一日中、お相手できます」ふたりが結婚にゴールするのは、昭和二十一年十二月十八日である。その日まで一度も歯の浮くような言葉を吐かなかった男だったが「日本一の牧場を作るつもりです」のひとことは、はっきりと告白していた。善哉が二十五歳、和子が二十四歳。乗馬が仲をとりもった旅立ちだった。(第二回・了)21 結婚へ善哉さんの旅第二回
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