ECLIPSE_202211_17-21
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て再開されたとき、馬が残っていたから助かったんだ」 この時期に、善哉は体をこわしている。もとから痩せていたのにさらに細くなり、空から咳せきがやまない。千葉県佐倉町にある結核療養所の佐倉厚生園に入院することになった。二人の兄も結核既往症をかかえた体だったから、感染が心配されたのだ。対応したときの善哉の強がりがふるっている。注射器のことが念頭にあった。 「俺には獣医の免許がある。なに平気だよ」善哉は馬に打つ注射針を、自分の尻に挿さす計算をしていたのである。 「薬の知識なら、動物と人間の違いに大したことがあるもんか。投薬量の加減だって、ある程度のメドはつくんだよ」入院する前の善哉の、異様な細り具合を知っていた富里の人たちの間では、噂話が持ち上がっていた。 「もしかしたら、善哉さん危ないよ」ストレプトマイシンやカナマイシン。手に入れるのに値の張る抗生物質を闇で買ってきて、自分の尻に何度も何度も打ち続けたのである。 「いやぁ、死ぬかと思ったよ、あの時は。がんがんがんがん、ストマイを自分の尻に打ったよ。買ってた薬を大量に隠し持ってたんだけど、死にたかあない奴に何度も盗まれて困ったよ」三カ月の入院で出てきた善哉は、退院後も挿し続けた。のちに父親・善哉の尻を、お風呂のなかで見た記憶を、長男・照哉が筆者に語ったものだ。 「お尻の筋肉がすっかり固くなって、もうどこにも注射針の入る箇所がないくらい、ストマイやカナマイシン打ってたみたいですよ」病気の恐怖と闘い続けた男は、自分で身に着けた治療法で再帰の道にたどり着いたのである。そのころの苦しかった生活事情を、善哉は何もなかったような顔をして、知人に語ったものだった。 「軍用馬と農耕馬を売り買いして、喰いつないでいたね。サラブレッドみたいに手がかからなくて、野放しにしても大丈夫だから外出もできた。外出してやったのは家畜商だよ。きれいには生きれなかったから、吉田善哉にダマされたって怒っていた人もいるね、きっと。こっちにダマす気がなくっても、なにせ必死だったからね。ひどい時代だったよ」この回顧譚は、戦争中ばかりか敗戦後日本の“焼跡闇市時代”をふくめた期間の、吉田善哉の青春史の一ページと思える。ずっとのちに新聞記者や雑誌記者に仕事を問われて、「俺は馬主でもなければブリーダーでもない。何の隠れもない馬喰だよ。馬喰以外の何者でもないよ」と言い放つことが多かったのは、この時の自己認識を飾りなく、誇張もせず、善哉が告白したものにほかならない。「兄はいつもひ剽ょう軽きんなことを言う朗らかな人で。千葉の富里を任されているのに、しょっちゅう白老にいて、本当は北海道だけで暮らしているんじゃないかって勘違いするぐらいに、白老に来てたんですよ」妹の浅井洋子は、善哉が、実に精力的に汽車で移動した日々を語った。昭和二十年一月十六日に、吉田善助が敗戦の日を待たずに脳溢血で他界した。善哉にしてみれば父親不在の寂しさを埋める帰省もあったが、父の生存中から何度も白老─千葉の間を往来した善哉の行動は、家族の癒しだったという。善哉はいつも、全員に笑顔をつくらせる存在だったようだ。また善哉は、ことのほか母テルを慈しむ男だった。「俺の母親は大したものだったね。父親が癇癪持ちで、飛抜けた我がまま男だったのに一切愚痴らなかったし、父親を立てた。教養が高かったし(父よりも)ウワテを行ってたよ」テルは子供たちの前で言っていた。「七人も姉妹兄きょう弟だいがいるんだから、誰かひとりが成功したら、ほかのみんなは守ってもらえるんですよ」博愛の心を子らに教えたテルは、敬虔なクリスチャンだった。そんな母をしっかり受けとめた善哉は、のちに結婚して生まれた長男に「照哉」と名づけた。水は酒をダメにする車は道をダメにする女は男をダメにするNovember 2022 vol.25020                     

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