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格は、父・善助と共通したところが大だったようだ。 妻であり、母親でもあった吉田テルは、二人のことをこう表現したりしていたという。 「善哉は、かなりの部分がパパと同じ部品でつくられているのよ。だから多少のことでは、あの子は挫けはしないわよ」 「先を急ぎ、思いつけばためらわずに行動する男」だった吉田善助は、資金が十二分に揃う前に借金をして、夢を形にするために前進する人だった。善哉がまだ「空知農林二年生」だったころに、再び大きな買いものに打って出ている。千葉県印旛郡富とみ里さとに四十ヘクタールの土地を購入。『千葉社台牧場』と名づけて、すぐさま牧場用の整地にとりかかっている。息子は父親の口グセを耳にしていた。 「よく走る馬は千葉県産だな(筆者注・下総御料牧場の有名な種牡馬トウルヌソルが、第一回東京優駿大競走で優勝馬ワカタカ、三着馬アサハギの生産馬となった)。千葉は温暖だし、事業に成功したカネ持ちが多い関東の馬主たちの、足も近い。仔っ子を見せる、買わせるには最高の場所さ」だから、父親の買いものに息子は驚きもしていない。同じ年の昭和十四年五月に、善助は“第八回東京優駿大競走”で勝負に挑んでいる。今度は生産馬ハレルヤの馬主を、みずからが務めた。単勝で四番人気で、もう一頭の生産馬マルタケ(馬主・榎寿逸)は三番人気だった。舞台は府中の東京競馬場である。今度は二頭とも下総御料牧場生産馬の人気を超えていた。結果は、単勝で七番人気の下総御料牧場の生産馬クモハタ(父馬トウルヌソル)の勝利である。ハレルヤは五着、マルタケは六着に沈んでしまった。意気込んで上京していた吉田善助の悲痛は、いかばかりだったのか。 「社台の生産馬が負けると、父の癇かん癪しゃくと激怒はとてもとても見ていられなくて、母も姉弟たちもそばには近づけませんでした。ことに頂点にあったレースに負けたら、誰も父の怒りをしずめることは」善哉の妹、浅井洋子の回想である。昭和十五年三月がやってきて、予定どおり獣医師免許を手に入れ、善哉は空知農林を卒業した。 「卒業と同時に三男坊の私は、千葉にできた富里牧場を担当させられた。この牧場が戦争のため、昭和十八年に閉鎖させられるまで、ここで馬の飼育に明け暮れた」(新潮社発行『新潮45十』昭和五十七年六月号)善哉が語った「戦争」の期間は、想像する以上に長い。すでに戦争は千葉社台牧場を任される前から始まり、昭和十六年十二月の真珠湾攻撃から昭和二十年夏の敗戦。そこから敗戦後の日本を生き抜き、立ち上がるまでが「戦争」なのである。その期間に、また善助の東京優駿大競走への挑戦があり、またもや下総御料牧場産イエリュウ(父馬トウルヌソル)に勝たれた。四頭出しをした社台の馬は、九着以下の大敗だった。だが二十歳を超えたばかりの善哉は、挑戦をやめない父親をみながら、青春期のすべてを「戦争」に立ち向かわせようとしていた。日本各地から幾万人もの成人男子が、戦地へと駆り出されていく。戦局は深まるばかりになる。それでも細々とだが競馬は開催され、父・善助の挑戦もやまなかった。「働き手たちも、次つぎに徴兵徴用にかり出されて富里には人手がほとんどいなくなった。けれど相手は生き物だから手が抜けない。朝四時に起きて夜遅くまでかけずり回った。競馬のある日は、朝の追い運動が終わると電車に乗って、根岸や府中、中山の競馬場に足を運んだ」(前掲誌)レースが終わると、調教師たちに一杯飲ませて労をねぎらい、夜中にやっと千葉の牧場にたどり着く。疲労と栄養不足、睡眠不足で、善哉の体はみるみる骨と皮になった。一七二センチの男が、体重四八キロまで落ちた。昭和十八年十二月十七日の閣議で「競馬開催の中止」が決まった。全国にあった多くの馬産牧場は、閉鎖を余儀なくされた。北海道白老の社台の本場も千葉社台も同じである。全国の従業員たちで、戦場に徴用された人間も少なくない。「面倒見きれないけど、父親が苦労して集めたサラブレッドは減らしたくない。そのとき一頭も売らなかったのが、俺の自慢だなぁ。当初四十頭いた繁殖牝馬の半数以上は、有償で浦河の知っている牧場に預けた。戦争が終わっ19                 

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