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善哉さんの旅大正十年生まれ(一九二一年─一九九三年)札幌市出身。社台グループ創業者。日本の先駆的生産者吉田善助氏の三男として生まれ、昭和三十年独立して社台ファームを設立。翌三十一年に初めてアメリカへ渡り、以来、常に世界へ目を向け、英国ロンドン郊外にリッジウッドスタッド、米国ケンタッキー州レキシントンにフォンテンブローファームを経営。また、一九七二年から三年連続キーンランドのセリ市においてリーディングバイヤーとなるなど、世界に通用する日本のホースマンの第一人者であった。吉田善哉戦争が始まろうとしていた。岩見沢にある空知高等農林専門学校畜産科に、吉田善哉が入学するのは、昭和十二年四月である。三カ月後の七月には、日中戦争開始のきっかけになった盧溝橋事件は起き、十二月には日本軍が南京を占領する「南京事件」が起きている。そのわずかに前である。 「勉強なんかいい。男の子が三人とも揃って札幌一中に入って、どうするんだ。早く世に出て、人の役に立つ人間になるんだ」善哉の前で言いはなったのが吉田善助だった。三男坊の善哉は、幼いころから快活で周囲を飛び回るはち切れそうな子だった。ホルスタインによる乳製品の製造から、競走馬も生産育成する事業に乗り出した父親は、善哉の変化に気がついていた。仔牛には反応を示さなかった息子が、仔馬にはよく戯れ、兄弟を得たように追いかけ回している。小学校も中学年を過ぎたころには、顕微鏡を欲しがる。買ってやったら、タネ馬の精子ばかり覗きこんでいる。大人たちの仕事を観察しているものだから、血統の話にまで割って入る始末だ。いささか変わり者の善哉。この子には学問の机にかじりつかせるよりは、もっと解放された活動的な世界が向いているようだ。思いは確信に変わったから、善助は息子の耳もとで「獣医の仕事もあるんだよ」とつぶやいたのだ。やがて善哉は「空知農林に行く」と、目を輝かせて言うようになった。無限、永遠、神秘  此の実在の色相を帯び来れるもの  空の青を深々と被って  暖かき清純快濶の色黄色の校舎がある  純光の白雲去来して  常盤なる松の柔和の緑を配す  美はしき母校の姿  さやかにも輝き立ちて  純麗のクリーム色の壁  塵労の都を暼見して                  (以下略)  善哉が遺した卒業アルバムの巻頭に、時勢をしのばせる詩が載っている。空知農林に入ってから、善哉は一七二センチまで背丈を伸ばした。だが、色白で顎は細く体は痩せて、歌舞伎界を継ぐ少年のようである。その体にサイズ大きすぎの白衣をまとって、実習農園にホルスタインや馬と並んで立っていた。この学び舎で、はじめて実用の顕微鏡と注射器と出会い、十二分に使いこなせる技術を身に着けるため、三年間の歳月を過ごす。そのあとで、国家試験での「獣医師合格」を手にしたのだ。幼い日から、この学生時代まで、気短かでぐずぐずすることの全くない性生活のはてしに第二回結婚へNovember 2022 vol.25018

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