ECLIPSE_202210_7-13
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ll一九四八年鹿児島県生まれ。早稲田大学文学部中退。演劇活動ののち、文筆生活に入る。『優駿』『Ga哉氏の生涯を丁寧に描いた『吉田善哉 るか』『馬の王、騎手の詩』『駿馬、走りやまず』『調教師物語』『騎手物語』『名馬牧場物語』『神に逆らった馬 つくった男』『君は野平祐二を見たか?』など、多数。op(連載 木村幸治のホースマン列伝)』などに寄稿。著書に吉田善倖せなる巨人』のほか、『馬は誰のために走七冠馬ルドルフ誕生の秘密』『凱旋 シンボリルドルフを木村幸治る馬産家の期待、いまやいよいよ深刻なるべきは、ここにう疑たがいを存せざる所とす続いて「条件」の項がつづられているのだが、それは善助の願望を寸分も裏切ることのないものだった。条件馬は昭和四年生まれの内国産馬で、抽籤馬を除くこと。出馬申込みは(中略)前後三回行なうこと。距離は二四〇〇メートル。負担重量牡馬五十五キロ、牝馬五十三キロ(以下略)趣意書にそくして反応していった愛馬家や馬産家は、善助の想像をこえていた。一、二回目の申し込みをへて、三回目の申し込みまで絞られても、七十二頭の馬と五十七人の馬主が名を連らねていた。馬主の中には、全国的な人気作家だった菊池寛の名が目立った。千葉県新堀牧場の和田孝一郎、のちに日本競馬発展の功労者とたたえられる安田伊左衛門の名もあった。七十二頭の中には、吉田善助が用意し、ノミネートさせようとした四頭がいる。シャダイダケ、シャダイイサミ、シャダイノボル、シャダイツバメ。牧場の名前がすべての馬に冠せられ、馬主の意気込みが迫ってくる。時はすぎ、五十三人の馬主と馬は「十九」まで絞りこまれていく。その中に、吉田善助の名前は見当たらなかった。菊池寛も、安田伊左衛門の名も、落ちていた。だが、善助が牧場で生産し、熊谷茂八に買ってもらっていたヨシキタが、エントリーの権利を得ていた。この結果を(それでも…よし)と喜んだ善助は、目黒競馬場に行く決意をした。晴れの記念すべきレースを、誰かと分かち合いたい。そう考えた善助がすぐさま決めたのが、当時十歳になる直前の小学生、善哉である。善助はアメリカから連れてきたデッドインディアンが、社台牧場で仔を産み落としてから、その仔から離れず抱きしめ、一緒に草の上を走り、寝藁の中でたわむれていた善哉の姿を、よく知っていた。 熊谷茂八に売ったものの牧場にいて、ヨシキタと名前が決まったあとも、ずっとヨシキタを追いかけ続けていた息子を、知っていた。(善哉が、ヨシキタの大競走を見たくないはずはない)昭和七年四月二十四日である。札幌から夜汽車に乗り、二日がかりで目黒競馬場に着いた。その場所には親子で並べる観客席はなく、善哉は父と離れた「子供席」から、ヨシキタの晴れ舞台を眺めることになった。その日その時の吉田善哉は、気づいてはいない。しかし、同じ「子供席」から、レースを観戦した小学生がいた。島根県安濃郡川合村の自宅から父・孝一郎に連れられ、夜汽車で東京に向かって来た。千葉新堀牧場の息子・和田共弘だった。年齢も善哉より半年若いだけである。応援する馬は、父親が生産したレイコウ。このふたりの小学生こそ、成人したのちの人生で同じ千葉県の牧場ではげみ、ほかにない馬づくりのライバルとして認め合い、傑出した名馬を産みだして行く。努力が結実したのもほぼ同じ時期で、片方はシンボリルドルフで、他方はダイナガリバーで、日本競馬界の頂点に立つ。そのふたりが互いの視線を向けた目黒競馬場で、闘いの火ブタは切って落とされたのである。(第一回・了)11               善哉さんの旅第一回「社台」出帆

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