ECLIPSE_202210_7-13
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館で暮らしていた。 「大通小学校五、六年生のころ、親父に買ってもらった顕微鏡の前に座ってね、くる日もくる日も、タネ馬の精子が動くのを観察していたもんだよ」(善哉後日談より)タネツケ所(スタリオン)では顕微鏡が使われ、交尾のあとに繁殖牝馬の膣外にこぼれ出す射精液が、獣医師たちによって検査されていたのである。当時の善哉少年を近くで見ていた近親者が、回想して語ったものだ。 「やせっぽちで、やんちゃで、目がきょろっとして、いつも馬を追いかけ回して、血統の話になったら特別で、よくしゃべる子でしたよ。二人の兄が大人しくて、揃って札幌一中を目ざしてたものだから、余計に目立っていたのよね」(吉田一太郎夫人)この逸話は、善哉のすぐ下の妹だった浅井洋子が、父・善助について語ったものと重なってみえる。 「父は厳しかったけど、野放図な一面もみせる人でした。家からすぐそばの大通公園の野芝の上に、放牧されたホルスタインが大きな糞をいくつか並べていることがあって、母も卒業したミッションの北星(きたのほし)女学院に通っていた姉たちは、恥ずかしかったらしい。街中で(牛乳屋の)広告塔代りになってるくらい目立つ公園で、大きな牛を飼っていたのですから」その善助は幼い息子・善哉に言い置いて、姉の栄子を同行させて、彼自身三度目の渡米旅行に出かけたものだ。栄子は『七十日間の馬買い旅行』と題する記事を、月刊誌『優駿』(昭和五十四年一月号所収)に寄せている。 「昭和三年秋、十一月の初旬、父とともに札幌を発った。父の米国行きはこれが三度目。以前は種牛の購入に行ったのだったが、今度は商売を競走馬に乗り替えて、妊はらみ馬を買いにケンタッキーへ出向いたのだった」 「旅行中、私の欲しいものなど何ひとつ買ってくれず、明けても暮れても馬ばかり見に行き、牧場のデコボコ道をいいだけ歩かされた」まだ独身だった吉田栄子は嘆いたものだが、デコボコ道を歩かせた父善助は、種牡馬ポリグノータスを手に入れる仕事をしていた。のみならず、十六輓ばん近きん、競馬のり隆ゅう昌しょうにともない出場の馬数増加し、その資質またようやく改頭購入した妊娠済み繁殖牝馬の中に、種牡馬スウヰープオンの仔を宿したデッドインディアンもいた。このデッドインディアンが横浜港で上陸し、昭和四年に社台牧場で産んだ牝馬が、昭和七年開催“第一回東京優駿大競走”の最終出走権を手に入れた「ヨシキタ」に育っていくのである。実際に開かれるレースは、まだ「第一回」とは謳わず「日本ダービー」とも呼ばれなかったが、ふり返って日本競馬史のなかで第一回日本ダービー出走馬となったのは、まぎれもない。晴れて吉田善助がおこした社台牧場の、記念すべき生産馬となったのだ。吉田善助には、(昭和四年に日本国内で産ませた馬が…)との計算はあった。まだ七歳にしかならない息子・善哉には、父親が考えていることが見えていない。ただ善助の胸の内のざわつきは、幼な心に感じとれていたと思える。なにしろアメリカから来た馬が、父が造った社台牧場にいる。嬉しくてならない。善哉は毎日、放牧地から牧舎のほうに入りびたりで過ごしていた。馬の世話をする従業員と一緒に動く。寝藁にまみれて、自分なりに手伝う。学校に行く以外の時間は、馬中心の毎日を過ごした。そのころ、東京競馬倶楽部の会員有志たちの間で「日本でもイギリスのダービーにならって、距離二四〇〇メートルのレースを開こう」との意志が決められていく。レースをする舞台は、目黒競馬場がよいだろう。伯爵松平頼寿を会長にする俱楽部では、日本全国の競馬愛好者や馬産家に呼びかけるために「趣意書」をつくった。昭和五年四月のことで、それは善哉の父・善助にも届いた。東京優駿大競走編成趣意書善の域に達し、国防ならびに産業上国家に寄与することすこぶる大なるものあるは、まことに幸こう慶けいにたえざる所とす。かくしてわが競馬界の前進に対すOctober 2022 vol.24910             

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