ECLIPSE_202210_7-13
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 同じ明治二年、それまで蝦夷地と呼ばれていた北方の地に、明治新政府が北海道開拓使を設置した。そして八月十五日から、蝦夷地が正式に北海道と呼ばれることになった。二年が過ぎた明治四年七月には、廃藩置県の令が出た。南部藩に属していた士族の多くは「北海道開拓民の募集」の布令に応じて、新天地を求めて家族ぐるみで北の海峡を渡る準備をすることになった。善助の祖父(善哉からみれば曽祖父)にあたる善治が、その当事者である。このとき吉田善治と妻マツの間には、十歳になる長男・善太郎がいた。追って明治七(一八七四)年十月に、新政府は“屯田兵例則”を決めた。士族が優先して開墾地をもらえるよう、“士族授産”との一環として“士族屯田”の募集をし、北海道の防衛と開拓に当たってもらうことにした。早くいえば、もと士族のほうが一般日本人よりも資産が増やせるようにというエコひいきの特典である。そして、あくる明治八年には、札幌郊外の琴似・山鼻地区に東北出身の士族を配置することにした。その流れで吉田善治の一家は、琴似兵村の月つき寒さむに行くことになったのだ。この「月寒村」に入植したあと、吉田善治の長男・善太郎の活躍ぶりが突出していたようだ。『北海道人名辞書』(大正三年刊)をひも解けば、善太郎についての記述がある。 『藍らん綬じゅ褒ほう章しょう受領者。文久元年陸むつ奥国南岩手郡仁王村に生まれた。明治四年十一歳の時、父善治に随したがって全家渡道(明治八年)札幌郡月寒村に移住し、農業に従事するかたわら木炭製造業を営む。明治十八年父(善治)を失う。当時家政豊かならず。畑五町歩も地味悪く、同村大谷地に未開地を買い付け、または借受けて地積二十三万坪(約七十六ヘクタール)に至り、これを墾こん開かいして家政漸ようやく順調に向う。率先、資を投じて大谷地小学校を設立。(明治)二十五年同志と相謀はかり、許可を得て厚別川上流より灌漑用水路を作り、近傍一帯の水田に利した(これが吉田用水と呼了おわり、数旬にして兵舎落成す。第七師団第二十五連隊兵舎なり。ばれた)。(明治)二十八年第七師団建設の挙があり基地を平岸村に予定するや(途中略)善太郎はこれをいき慨どおりし、基地を月寒に変更。自家所有地は献納し、かつ他をして不当の利を貪らしめざることを誓い、ついに当局の容いれるところとなる。ほん走用旋し、予定の価格で土地買収を(明治)三十二年藍綬褒章。三十八年三等郵便局長のちに勲八等。善太郎はまた牧畜に志し、長男善助を米国に渡航せしめて優良畜牛多数を輸入す。大正五年、五十六歳にて歿ぼっす』ちなみに、日本人で初めて乳牛を輸入したのは、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗であった。吉宗は享保十三(一七二八)年に、インド産の牛三頭を購入している。 「蘭牛」と呼ばれたオランダ原産のホルスタインが初めて輸入されたのは、明治二十二(一八八九)年である。札幌農学校ほかに十一頭が導入されている。そうした流れから判断して、善太郎はわが身にも乳牛導入を決意したのである。息子・善助を渡米させたのは、明治四十年だった。アメリカから百十二頭が輸入されたが、うち二十頭は吉田家の買いものだった。この翌年にも十三頭が、善太郎・善助親子のもとに届いた。善助とテル夫妻は五女三男の子が生まれたが、三男善哉の誕生は大正十(一九二一)年、今から百一年前の五月三日だった。その年、札幌で開かれた大正博覧会に善助が出品したホルスタインが、金賞を受賞している。親子十人の大家族だが、吉田家の経営はほとんどホルスタインで潤っていた。しかし『牛乳屋』だけでは満足せず、競走馬生産に善助が動き出したのは、全国の酪農家たちにその気運が高まり、サラブレッドの導入が始まっていたからである。白老町社台に牧場用地を購入したのは、善助からみれば「遅すぎる決定」だった。吉田家はそのころ、札幌市中央区大通西八丁目に建てた木造三階建ての洋          9      

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