ECLIPSE_202210_7-13
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善哉さんの旅大正十年生まれ(一九二一年─一九九三年)札幌市出身。社台グループ創業者。日本の先駆的生産者吉田善助氏の三男として生まれ、昭和三十年独立して社台ファームを設立。翌三十一年に初めてアメリカへ渡り、以来、常に世界へ目を向け、英国ロンドン郊外にリッジウッドスタッド、米国ケンタッキー州レキシントンにフォンテンブローファームを経営。また、一九七二年から三年連続キーンランドのセリ市においてリーディングバイヤーとなるなど、世界に通用する日本のホースマンの第一人者であった。吉田善哉 「社」と「台」の二文字をつなげて「しゃだい」と読む。北海道白老郡白老町にある土地の名前である。そのうちの二〇〇〇町歩を購入したい男があらわれた。土地の持ち主は、徳川慶喜の孫にあたる公爵の徳川慶光だった。三万円なら手離すという話になった。しかし、買う側が一括では払えないので十年年賦での、五万円に近い価格で決まった。昭和三年のことである。売る側の思いよりも、土地を欲しがった側の先延ばししたくない性急な事情がにじみ出た決着に思える。買った人が吉田善助だった。妻テルの実父が大日本麦酒(のちにサッポロビール・アサヒビール)の工場長をつとめていた。その工場長が公爵と面識を持っていたのが「信用」の縁で、保証人も引き受けた。売買は成立した。このいきさつと、すぐさまの牧場への旅立ちがなかったら「社台」の地名は、日本のどこにでもある平凡な土地名のまま、今日まであり続けただけだったかもしれない。しかし所有者が代わり「社台牧場」と明示された農地には、牧柵という名のバリケードが張りめぐらされた。晴れてそよ風の吹く日に青草がまぶしく輝く放牧地には、ホルスタインが遊び、サラブレッドの母仔が駆けめぐる景色が、展開されることになった。土地というのは不思議な生きものである。持ち主の自意識や美意識がぷんぷんとただよう土地には活気がみなぎり、そうでない土地には無気力な退屈が、重たくよどむ。九十年以上も前をふり返れば、こころなしセピア色を帯びたモノクローム写真のような風景のなかに、父親・善助が立ち、彼の可愛くてならない三人の息子が、それぞれの日にそこにいた。合わせれば四人の父子の姿は、社台牧場のあちこちの場所に、切り絵のようにレイアウトされて貼りついていた。まさしくその絵は、社台牧場版フィールド・オブ・ドリームの影絵そのものであった。新生社台牧場のあるじになった吉田善助の“前史”についてみてみよう。善助はそれまで、ホルスタインの多頭飼育によって、乳製品の製造と卸し販売を営んできた、北国の『牛乳屋』だった。彼が愛する妻テルの父親の人徳や保証能力をうやまい、義父の顔にドロをぬることなく配慮しながら、思いきり広大な面積の農地を活用したかった理由。それは、良質で強い競走馬づくりの事業を成功させたかったからである。牛の健康と肥育のために広過ぎる土地はいらない。馬とちがって、牛たちはミルクは出すけれど走らない重厚な動物である。馬を走らせるためには、手持ちのカネだけで手に入る中途半端な土地なら、やめたほうがよい。善助はそう考えて、「借りる勇気」を選択したのだ。「江戸」が「東京」へと名を変えた。明治二年三月のことである。第一回「社台」出帆              8October 2022 vol.249

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