Champon shp〉はジャパンカップの創米国の競馬の祭典〝ブリーダーズカップ〟〈Breeder's cup World Thoroughbred 設〈1981年₁₁月₂₂日〉から3年遅れた₈₄年₁₁月₁₀日にスタートしました。セクレタリアト、シアトルスルー、アファームドが三冠馬となって大活躍、競馬場に熱狂が渦巻いた1970年代の終焉によって、米国の競馬人気は潮が引くように後退。残されたコアなファンはギャンブル色を強くして、まばらに競馬場を訪れていました。停滞期とも呼べる₈₀年代の米国競馬界に危機感を持ち、警鐘を鳴らそうと立ち上がったのがケンタッキーでゲインズウェイファーム(サンデーサイレンスの父ヘイローやリファール、ブラッシンググルームなどの名種牡馬を供用)を経営するジョン・ゲインズ氏でした。ゲインズ氏は、その年の米国競馬の締めくくりとして、カテゴリー別のチャンピオンを決めるレースを1日に集中して行うフェスティバル形式を導入し、競馬を再び活気づけようと考えました。生産者を主体とする〝ブリーダーズカップ〟は、前例のない高額賞金をかけて全米からトップホースを集め、それを主要競馬場の持ち回りで行うことで、競馬をメジャースポーツに押し上げるための起死回生のビッグイベントとして出発しました。ゲインズ氏は最大の課題だった高額賞金の調達について、クォーターホーii ス競馬が採用していた「ブラックゴールドフューチュリティ」というレースシステムを、ブリーダーズカップに流用しようと考えました。これは種牡馬所有者に種付料と同額の登録料を拠出させ、その種牡馬の産駒のみ出走権を与えるレースのことで、もちろん競走馬の出馬登録も必要とされるため、種牡馬の数が限られているクォーターホース競馬でも数十万ドルの賞金を積み立てることができました。高額賞金を実現することで、競馬場やスポンサーの手を借りずに、競馬の原点となるステークス競走を軸にした〝スポーツ〟としての側面も強調しようと考えたのでした。ゲインズ氏はこの仕組みを応用してブリーダーズカップの種牡馬登録が開始された1982年、米国種牡馬で最高額はノーザンダンサーの₃₀万ドル、これは当時の交換レートで約7900万円という高額になりますが、繋養するウインドフィールズファームが、これを支払わなければ産駒のBC出走が叶わないのですから、仕方がありません。種牡馬登録の有無はセリのカタログにも記載され、これが仔馬の価格にも反映されたので、販売促進費として考えれば、納得できるものだったのでしょう。第1回のブリーダーズカップの種牡馬登録に応じた種牡馬は約1500頭、登録料の合計は1050万ドル(約出馬登録料の合計は6903頭で898万ドル(約₂₃億6500万円)となりました。このうちの約半分がブリーダーズカップの賞金を含む運営費となり、残りが北米のステークスの賞金に回されました。そうして始まったブリーダーズカップは、年度代表馬を決めるクラシック、未来の生産を担う牝馬のためのディスタフ、欧州馬の誘致を念頭に置いた2つの芝のレース(ターフとマイル)、短距離王決定戦のスプリント、それに2歳のジュベナイルとジュベナイルフィリーズの7つでスタート(現在は記念すべき第1回は、今はなきロサンゼルスのハリウッドパーク競馬場で行われ、その模様はNBCテレビから全米ネットで中継されて、たくさんの視聴者を集めました。「一発勝負でチャブリーダーズカップの歴史ディスタフを制した名馬たちJanuary 2022 vol.24016₂₇億6500万円)に達し、競走馬の₁₄の重賞レースに拡大)しました。パーソナルエンスン以来、20年ぶり史上2頭目となる無敗で優勝したゼニヤッタ11戦無敗のソングバードとの歴史的名牝同士の壮絶な叩き合いをハナ差制したビホルダープリークネスS覇者スイススカイダイバーとの2強対決を制したモノモイガールマルシュロレーヌ北米競馬の祭典ブリーダーズカップに名を刻む
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