シャルデーは5頭ものGⅠ馬をこの世に送り出した。あるいは、ポトリサリスは全姉に3頭、半弟に1頭、計4頭のGⅠ馬を姉弟に持つ超良血馬である。1998年4月29日、ポトリサリスはサン・イシドロ競馬場1Rの芝1400mで競走馬としてデビューした。初勝利をあげたのは3戦目、サン・イシドロ競馬場4Rの芝1600mだった。2歳時は3戦1勝で終える。 3歳になり、ポトリサリスはギジェルモ・フランケル・サンティジャン調教師からディエゴ・ペーニャ調教師の管理馬となった。8月24日のパレルモ競馬場3Rでダート戦に挑むと、2着に4馬身差をつける快勝をおさめ、キャリア2勝目をあげた。GⅡでの4着を挟み、ポトリサリスは10月3日にパレルモ競馬場で行なわれたGⅠセレクシオンに出走した。このレースはアルゼンチンのオークスに相当する。GⅠ2勝のノータックが単勝1.35倍の圧倒的1番人気に支持された。しかし、ポトリサリスは2着イレアリダーに9馬身もの大差をつけて重賞初勝利を飾り、いっきに3歳女王の座を手に入れた。アルゼンチンの3歳牝馬路線は、11月の3歳牝馬GⅠエンリケ・アセバルから12月の古馬混合の牝馬GⅠコパ・デ・プラタという流れが基本である。だが、ポトリサリスの陣営が選択したのは、11月のGⅠナシオナルから12月にサン・イシドロ競馬場で行なわれるアルゼンチン最大のGⅠ競走カルロス・ペジェグリーニだった。牡馬との対決である。1998年11月14日、ナシオナル。前哨戦のGⅡを5馬身差で快勝したシュトゥルーデルフィッツが1番人気に支持された。だが、もっとも脅威と思われたのは、重賞4連勝で3歳GⅠプロビンシア・デ・ブエノスアイレスを優勝した2番人気のティフォージだった。3番人気にオークス馬ポトリサリスが入り、4番人気はアルゼンチン3冠競走の第1戦GⅠポージャ・デ・ポトリージョスの勝ち馬シュヴィヤールだった。牡馬の強豪がそろい、ポトリサリスにはあまりにも厳しい戦いだった。加えて、陣営をアクシデントが襲った。ポトリサリスの主戦を務めていたハシント・エレーラ騎手が、怪我のため乗り替わりを強いられたのである。アルゼンチン騎手大賞を4度も受賞した名手の代役に選ばれたのが、当時25歳の天才フアン・ノリエガ騎手だった。最後の直線に入ると、上位人気3頭による争いが繰り広げられた。旗色が良いのはティフォージだった。だが、ゴールまで残り200mの地点でティフォージを悲劇が襲った。骨折、競走中止となったのである。2頭となった戦いは、ポトリサリスがシュトゥルーデルフィッツに1 1/2馬身差をつけて勝利した。ポトリサリスのナシオナル優勝は快挙ずくめだった。現在までに通算4300勝以上、GⅠを80勝以上しているノリエガ騎手にとって初めてのダービー制覇。父ポトリジャソとの親仔制覇。だが、特筆すべきは牝馬による制覇ということである。1884年に始まったナシオナルの歴史において、牝馬による優勝は13例ある。列挙すると、1887年のコンデサ、1892年のニオベ、1894年のポルテーニャ、1907年のシビーラ、1910年のエスピリタ、1918年のオメーガ、1928年のファンフリーニャ、1930年のシエラバルカルセ、1937年のケマイータ、1940年のラミッション、1945年のミスグリージョ、1975年のカラバーナ、そして23年の歳月が流れ、1998年のポトリサリスである。このうち、セレクシオンとナシオナルの両方を制した馬は、ポルテーニャ、オメーガ、ミスグリージョ、ポトリサリスの4頭しかいない。ポトリサリスによるオークス&ダービーのダブル優勝は、実に53年ぶりの偉業だった。ナシオナルを終え、ポトリサリスはGⅠカルロス・ペジェグリーニに出走した。久しぶりの芝であり、古馬を相手にしながらも4着と好走した。活躍が評価され、1998年の年度代表牝馬と最優秀3歳牝馬に選出された。翌年3月、ポトリサリスはペルーのモンテリーコ競馬場で開かれた競馬の南米選手権GⅠラティーノアメリカーノにアルゼンチン代表として出走し、ここでも4着と好走した。その後はアメリカに移籍し、アメリカとドバイで走ったが勝ち星はあげられなかった。ポトリサリスの故郷ラ・マドゥルガーダ牧場は、スペイン語で「夜明け」という意味である。夜明けで産まれたアルゼンチンの歴史的名牝は、アメリカ、UAEとまるで日の光に導かれるように進路を東に向け、いよいよ日出ずる国にたどり着いた。彼女が競走馬として放った輝きは、しかと子孫たちに受け継がれている。(木下昂也)132005年優駿牝馬
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