消、日本ダービーは5着、菊花賞は11着だった。春秋の京都記念と金杯などを勝ち、通算34戦10勝。引退後は種牡馬になった。寺山は、ヤマニリュウが好きだった。〈その馬は、いつも追いかけていた。「追いかける」ことだけが宿命のような馬であった。そして、ホームストレッチではついに追いつき、追いこすのである。それはヤマニリュウという馬であった〉(「ヤマニリュウが追いつくとき」)その後に〈フェリオールの仔は美しい〉と記しているように、寺山は、フェリオールの産駒を贔屓にしていたのである。気のニホンピローエース(20着)で、ていた。酒場で見た「幻のダービー」の展開は、こうだ。〈ニホンピローエースがぐんとのびて、みるみる四馬身、五馬身と差がひらいてくる。(略)ソロモンがニホンピローエースのすぐ後から、ヤマニリュウが大外からとびこんで二着は写真判定の結果、ソロモン〉(「抒情的な幻影」)れたが、2着(ソロモン)は的中させた。ヤマニリュウは前述のように5着だった。そんな彼のダービーの本命は2番人 1着(テイトオー、12番人気)は外寺山は、大量殺人を犯した貴族のジルドレについて触れ、同じ名を持つ英国産種牡馬ジルドレの産駒である皐月賞馬チトセオーなどについて書き、こうつづけている。〈ジルドレ侯を死刑にしたのは「ブルターニュ公」である。そしてブルターニュという名の馬も、またチトセオーと前後して、いたのだ。(略)快速の美馬である。いったい、こうしたフランス中世の悪と美との葛藤が、いまごろ東京の競馬場にもち込まれて、何をくりかえそうとしているのかは、私にもはかりしれぬ〉(「悪の華ジルドレ」)このように、史実や文芸作品と競馬を結びつけて語るのも「寺山流」と言える。なお、ブルターニュは京都4歳特別を勝つなど30戦5勝という成績だった。持ち込み馬で、管理調教師は「大尾形」と呼ばれた尾形藤吉、旧7歳時の年明けまでの主戦騎手は日本にモンキー乗りをひろめた保田隆芳その後は野平祐二らが騎乗という最強タッグ。京都記念、阪神大賞典などを勝っている。が、天皇賞に4回出走して2着3回、3着1回となるなど、大舞台では勝ち切れなかった。寺山が好きになりそうなタイプである。報知新聞に掲載された71年アメリカJCCの予想コラムに、こう書いている。〈天皇賞では、ムチを落とした野平祐が素手でたたきながら、フイニイをアカネテンリュウに先着させたうまさは驚きであった〉(「だれがアカネテンリュウを負かすか?」)フイニイは70年の春秋の天皇賞でアカネテンリュウと対決しており、その両方で先着を果たしている。なお、このアメリカJCCを勝ったのはアカネテンリュウで、フイニイは5着だった。キョウ、68年の桜花賞馬コウユウの半妹である。〈渡辺孝敏は三位にシャダイセンターを挙げたが、これも私はほんとにすばらしい美少女だったと思う〉(「グッド・ルッキング・ホース」)寺山の「選馬(眼)」において、「美しさ」は非常に重要だった。〈この姉妹はどれも美しく、中でも姉のミストウキョウは戦後競馬史上の美女NO1であった。数年前、私が友人たちとシャダイ牧場(原文ママ)を訪れたとき、一頭とてもかわいい馬がいて、(略)レースに出たら応援してやってくれ、と牧童に言われて帰って来たが、その馬がシャダイセンターである〉(「短距離ランナーの孤独」)■ ブルターニュ(牡、1963年生、■ フイニイ(牡、1964年生、父コ父フェリオール、母ラウリンス、社台牧場生産)ホーズ、母ラニザナ、社台ファーム千葉生産)■ シャダイセンター(牝、1967年生、父ラヴァンダン、母ゴールデンフィズ、社台ファーム生産、吉田善哉所有) 911番人気のヤマニリュウを穴馬に挙げ66年のクイーンC2着馬ミストウ青森県弘前市で生まれる■1956年(20歳) 早大在学中、ネフローゼで入院中に競馬を覚えた■1962年(26歳) のちに血統評論家となる山野浩一(1939-2017)に連れられ、初めて競馬場へ(翌年だった可能性も)■1964年(28歳) 好きだった牝馬ミオソチスが地方へ■1966年(30歳) 競馬関連初の著作『競馬場で会おう』上梓■1967年(31歳) ベストセラー『書を捨てよ、町へ出よう』上梓。このころユリシーズの馬主に■1968年(32歳) ケンタッキーダービー現地観戦■1970年(34歳) 報知新聞で予想コラム連載開始■1973年(37歳) 日本中央競馬会のCM出演■1974年(38歳) 「さらばハイセイコー」発表■1983年(47歳) 4月17日、ミスターシービーの皐月賞優勝をテレビ解説。当日の報知新聞のコラムが競馬関連の絶筆。5月4日、逝去【寺山修司競馬年譜】※年齢は誕生日前として記載■1935年12月10日、寺山八郎、はつ夫妻の長男として
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