〈だが私は必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていない。その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである〉寺山修司の言葉で、最も広く知られているのはこれだろう。詩人、歌人、劇作家などとして、様々な分野で一時代を築いた寺山は、競馬コラムニストとしても活躍した。彼が世を去ったのが1983年。そう、今年は没後40年の節目なのである。寺山は、47歳で没したとは思えないほど多くの作品を残している。競馬コラムも例外ではない。しかし、亡くなったのは、キャロットクラブが創設される前だった。なので、ここでは、現在のキキャロットクラブを含む社台グループにつながる馬(千葉社台牧場の生産馬など)について、寺山がどのように書いているかを見ていくことにする。私は競馬を始めたばかりのころからだが、こうした切り口で読み返したのは初めてのことだった。もちろん楽しみでもあったが、不安もあった。逃げや追い込みなど極端な競馬しかできない馬や、悲運を背負った人馬を愛した寺山が、はたしてどのくらい社台グループ関連の馬について書いているだろうか、と。作中に出てくる馬を片っ端から調べたところ、やはり、自身の出身地である青森で生まれた馬などが多かったのだが、社台グループ関連の馬についても、予想以上に書いていた。では、本題に入りたい。寺山の競馬関連本の特徴として、同じ作品が複数の本に収められていることがままあるので、出典には章題のみ記す。時代の古い順に紹介し、馬名は拗音を用いた表記にする。寺山は、1943年にダービー、オークス、菊花賞を制した女傑クリフジが、引退後「年藤」という繁殖名(血統名)になったことに関連づけて、こう書いている。〈繁殖入りして名を変えてしまった馬は少なくないようである。母をたずねて三千里のエピソードではないが、ハクフジ・ファンだった男が、ハクフジの子がレースに出る日に競馬から足を洗うと心に決めて、その日を心待ちにしている……という話を聞いた〉(「クリフジはいずこに」)ハクフジは、57年の最優秀(旧)3歳牝馬に選ばれた強い馬だった。寺山は、そのハクフジが「キャデラック」という繁殖名になっており、すでに仔が何度もレースに出ていることをハクフジ・ファンの男に告げた。〈すると男は、みるみる顔を青ざめさせて「あいつめ、おれをダマしやがった!」といってカウンターにグラスを叩きつけたのであった〉(同前)寺山自身も、作中の人物も、馬に対して人間に対する以上の愛憎を隠さず、周囲とぶつけ合った。その意味で、いかにも寺山らしい作品と言える。■ ハクフジ(牝、1955年生、父トリプリケート、母テューテュー、社台牧場生産)30年以上も寺山作品を愛読しているの 7 下河辺牧場でミオソチスと再会する。「初恋の女にでも会いに行くような、てれくささと、気恥ずかしさがあった」(1967年)寺山修司と社台グループ─奇才は社台グループの馬たちをどう描いたのか─Text: 島田 明宏
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