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にやるには、調教師になるしかない」。1987年に調教師免許を取得し、翌なり調教、運動時間や厩舎作業の見直し、カイバや寝藁の改良…。イギリスで構築された信念を貫き、馬を第一に考えた調教法や管理の仕方などを、次々と取り入れた。 「昔はビシビシと追う調教が主流だったからね。はじめのうちは、反発の声や陰口が耳に届いた。馬なりの調教で勝てるほど甘くないとか、何頭も集団で調教をするなんて邪魔だとか…。私には意味が理解できなかったよね。強い調教で鍛えるより、大事なのは普段の積み重ね。何も特別なことはしていない。どれもイギリスでは当たり前のことです」果を出し始めると、周囲も藤沢流のスタイルを習うようになる。当時においては、馬の扱い方や調教の概念を改めたと言っても過言ではない。 「そのあたりはジャパンカップの開催(1981年に創設)も大きかったと思う。競馬の先進国から来日したホースマンが馬の扱い方、しつけの良さを見せてくれた。そうした姿を見習うことにより、日本の人たちも少しずつ意識が変わってきたんだと思います」ウラブリイ)でG1初制覇。この年は自身初のリーディングトレーナーにも2004年にかけては10年連続で最多勝利調教師に君臨。チャンピオントレーナーの座を不動のものにした。海外遠征にも目を向け、1998年にはフランスのG1・ジャックルマロワ賞(タイキシャトル)を制覇。その他にもバブルガムフェロー、タイキブリザード、シンボリクリスエス、ゼンノetc…。まさに、藤沢和雄厩舎の黄金時代を築いた。 「サンデーサイレンスが種牡馬として導入され、調教師になり立ての頃とは日本の競馬を取り巻く環境が大きく変わった。血統の進化や牧場の施設は勿論、生産や育成の技術など、競馬界そうした雑音にも屈せず、次第に結1993年にはマイルCS(シンコ輝いた。さらに、1995年からロブロイ、ダンスインザムード全体がレベルアップしたことは間違いないと思います」そんな中、キャロットクラブの所属馬を管理したのは2004年生まれの世代(2頭)が初めて。ストームホイッスル(2戦0勝)は脚元の弱さから順調に使えなかったが、もう1頭のプラテアードは2戦目で勝ち上がり、ダービー(18着)の舞台にも立った。 「覚えていますよ。プラテアードは距離が長いと思っていたけど、ダービーに行かせてもらいました。あの年は牝馬のウオッカが勝ってね。札幌の狸小路商店街にあった場外馬券発売所(ウインズ札幌B館=2021年5月写真が飾られていたのを記憶しています」次の世代からは、自身が手掛けたレディブロンドの一族を管理した。初仔のジャングルビジットは蹄の問題でデビューに至らなかった(のちにホッカイドウ競馬で3戦3勝)が、2番仔のラドラーダ(父シンボリクリスエス)は4勝をマーク。2010年のヴィクトリアマイルではブエナビスタ、レッドディザイアに次ぐ3番人気の支持を集めた。結果(13着)は伴わなかったが、もしかしたら…と色気を持って送り出した。 「父母ともに自分の厩舎にいたし、よく知る血統だったからね。最初に勝ち上がるのがギリギリの時期になってしまったけど、そこからは軌道に乗っ25ダービー優勝の翌週に厩舎にて藤沢和雄調教師&ルメール騎手1500勝記念碑10日に閉館)の入り口に、スタートの88年に厩舎を開業した。集団調教、馬    

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